小説『虹をつかむ人』第八章   Novel "The Rainbow Grabber" Chapter 8

第八章

 石川はいつもよりも三十分ほど飲み過ぎたようだった。
 とりあえず安心して身重の妻が待つ温かな家庭に帰っていった。そういう姿を見ていると、そういうことから程遠い境遇にいる自分の心も、何となく少しほんのりとしてくる。いい笑顔だったな。私は今夜、間違ったことをしなくて良かったと思った。
 席を立つとき、石川は私に尋ねた。
「結局、課長の早期退職は、私のクビの代わりに、ですよね? いや、いいんです、何も、言わないでください。私も、そんなに馬鹿じゃありませんから。私がクビだという噂が流れていました。今は何もお返しできませんが、生まれてくる子供の分も、お礼を言います。ありがとうございます。それから、退職後の課長の健闘を祈ります。お疲れ様でした」
 石川が帰ったあと、私は店に残ったままムロエさんに電話をしてみた。何度かけても、話し中だった。留守電にメッセージを残した。
「渡辺です。先日の件で、改めてお会いしたいと思います。連絡をお待ちしています」
 それから同じ内容のメールも送ってみた。すぐにムロエさんから何か返事が、電話やメールで来るかと思って、そのまま店で待っていた。でも私の携帯は無反応だった。
 私の頭の中に黒々とした雲が広がった。石川の爽やかな笑顔を思い出してみても、その雲は晴れそうになかった。何がどうなっているのだろう。私は今夜、薄っぺらな正義感を振り回して、間違ったことをしたのだろうか。
 店を出て夜空を見上げた。星は見えず、もちろん虹もなかった。ネオンの向こうに、月は白く小さく輝いていたが。私は突然、「公益財団法人虹捕獲研究所」の検索を始めた。でも入力の途中で止めた。
 仮にムロエさんに騙されていたとしても、そうであったとしても、私の人生には大差はないだろう。実害は特に何もないはずだった。もしあったとしても、それはそれで仕方ない。なぜなら、私は石川をクビにはできなかったし、あの会社で働き続けることもできなかったのだから。
 そこまで考えたら、少し雲が晴れてきた。早く帰って、この気分のまま辞表を書いてしまおう。そう思った。

 私の部屋のドアの前に、この前と同じような格好でムロエさんが待っていた。ずいぶん時間が経っているのに、あのときの時間が今と連結されたような錯覚に包まれた。
「こんばんは。渡辺さん、ご連絡、わざわざありがとうございました。それなのに、すぐにお返事ができずに、申し訳ありませんでした。言い訳になりますが、最近、私はフィールドワークよりも研究所における官僚的な仕事が忙しくて」
「お疲れ様です、ムロエさん。忙しいのに、わざわざ、すいません。待ちましたか?」
「いいえ、それほどでも。実は、私、ここだけの極秘の個人情報ですが、このマンションの、二つ上の階に住んでいます。だから、大丈夫なんです」
 私はムロエさんと部屋に入って、キッチンのテーブルを挟んで座った。私が淹れたコーヒーを二人で飲んだ。
 私はムロエさんに「虹捕獲師」を目指すことを伝えた。
「ムロエさんのように一級になれるかどうか、新卒でもないし、若くもない私が、この年から始めるわけですから、正直、本物になれるかどうか、よくわかりません。でも推薦してくれるムロエさんの顔を潰さないように、迷惑をかけないように頑張ります。今言えるのはそれだけです。よろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします。でも今夜、ついさっきのことですが、本当に危なかったですね。もう少しで、部下の人をクビにしそうでしたよね。他人事ながら冷や冷やしました。もしも、部下の人をクビにしていたら、この話はなかったことになるところでしたから。本当に、本当に危ないところでした」
「はあ。驚いたな。ムロエさん、そんなことまで知っているんですか?」
「もしも渡辺さんが気を悪くされたのなら謝罪します。私のような立場になりますと、大抵のことは、例えば知りたくないことでも、例外なく知ってしまいます。それだけではなくて、私自身についても関係者に知られてしまいます。これについては、仕方がないと諦めて頂くほかありません。といっても、もちろん外部に大切な個人情報が漏洩するということは、一切ありません。ご安心ください」
「別に気を悪くしたわけではなくて、少し、驚いただけです。それよりも、そもそも、なぜ私を推薦するのですか?」
「色々な条件に適合したからです。といっても、年齢、国籍、性別は、最初から不問ですが。まずジャンプ力、つまり上に跳ぶ、跳躍力です。跳躍力は虹を捕獲するのに不可欠な能力です。
 前回、梯子のお話をさせて頂きましたが、覚えていますか? あの梯子、実は地面から浮いているのです。垂直に浮いています。でも大丈夫です。それなりに安定していますから、上っていくのには問題ありません。ただし梯子が浮いているため、梯子の最下段に跳び付くだけのジャンプ力が不可欠です。最低でも、そうですね、平均すれば、一メートル近いジャンプ力は必要になります。
 なぜ浮いているのかについては、専門的すぎて、私にも何だかよくわからないので、うまく説明できません。梯子の素材である超合金と地球の磁場の問題だとか、超電導の作用だとか、量子理論の応用だとか、そんなことを研修の際に聞いたような気がします。もしも渡辺さんがそれについて個人的に知りたいのであれば、虹捕獲師になってから研究所の備品開発担当者に質問してみてはいかがでしょうか?
 話を戻します。ジャンプ力が不可欠な虹捕獲師は、過去にジャンプ力が必要なアスリートだった人が多いですね。バスケットボール、バレーボール、ハンドボール、サッカーのゴールキーパー、ハイジャンプなどの選手などです。それからバレリーナだったという経歴の人もいます。シニアの虹捕獲師の中には、元棒高跳びの五輪日本代表という経歴の人もいましたが、やはり残念ですが、棒がなければ精彩を欠きます。渡辺さんは大学までハイジャンプの選手でしたから問題ありません。
 ええ、おっしゃる通り、現役アスリートであればジャンプ力の点では最高でしょう。しかし、研究所は目立った活動は避けています。この活動は一時的なブームで終わるようなものではありませんから、現役アスリートを使って世の中の耳目を集めたくないのです。
 でも私は個人的には、前回も少し脱線しましたが、耳目を集めることも必要だと考えていますから、現役アスリートを採用しても良いのではないかと思います。まあ、実際にはギャラの点から難しいでしょうけれど。
 それから文系脳であることも大切です。そうですね、情緒脳と言い換えてもいいかもしれません。まず虹を美しいと感じることができるかどうか。それが問題です。渡辺さんは文学部の国文学科で夏目漱石の研究をされていましたから大丈夫です。理系脳を全て否定するわけではありませんが、いわゆるマッド・サイエンティストが登場しては困りますから。科学的知識がありすぎると、倫理観が置き去りにされる傾向があります。あと、お金儲けが好きな方にも、ご遠慮して頂きます。
 例えば、虹を捕獲したあと、違法に培養して、アトラクション運営企業に転売するなど、そういう発想に繋がりやすいのです。身内の恥をさらすようで心苦しいですが、実際に多額の報酬に目がくらみ、そういう事件を起こして消えていった、文字通り虹のように消えていった虹捕獲師も、大勢いました。さらに近い将来、虹を変容させて兵器への転用を企むようなマッド・サイエンティストが出現するかもしれません。そういうことも私達は恐れているのです。
 さらに独身であるということも大事な要素です。失礼ですが、その点でも渡辺さんは合格です。虹捕獲師は虹の発生に合わせて暮らしていくようなものですから、なかなか健全な家庭生活を維持することは難しいでしょう。その大変さに比べて、申し訳ありませんが、年収は微々たるものです。理解力と経済力のある家族なら大丈夫かもしれませんが、少なくとも私の場合は無理でした。現在、私はバツイチの独身です。これも個人的な情報ですが。
 それでも、という言い方は変ですが、何があっても人生を投げ出さず、真面目にコツコツと前向きに生きる人は、虹捕獲師に向いています。前回もお話しましたが、蹴落とす人よりも蹴落とされる人の方が適していると、私は個人的に思います。自分の利益のために他人をクビにできる人には向いていません。
 ええ、そうですね。ブラック企業のトップなどは問題外です。彼らは虹の美しさに、一生気がつかずに死んでいくのでしょう。本当に哀れなことですが、それもまた運命だということです。少々脱線もありましたが、この私の話が、渡辺さんのご質問の答えになっていますか?」
「ええ、十分です。私の質問の答えになっていると思います。ただ問題は私の方です。私自身の問題として、ご存知かどうかわかりませんが、私はこれまで生きてきて、ずっと前向きだったわけではありません。そうでなかった時期が過去にはあります。今現在だって、前向きかどうか。自信がありません。それでもムロエさんは私が『虹捕獲師』に適しているといえますか?」
 ムロエさんの目が厳しくなったように感じた。
 私に対するというよりも、自分の中に蓄積されたデータを真剣に辿っているのだろう。ムロエさんの頭の中には、どうやって調べ上げたのかはわからないが、私の過去の様々な出来事が公式非公式を含めて満載されているはずだ。それを今、超高速でチェックしているのだろう。
 ムロエさんが把握している私の過去の中に、これから告白しようとする私の過去はないのかもしれない。それとも、あるのかもしれない。理由はわからないが、ムロエさんがあえて語らなかった私の過去を、私は自ら告白しようとしているのだろうか。その自傷にも似た行為を思い留まらせるための、そういう意味合いの厳しい目なのかもしれない。
 そうだとしても、私は告白しないわけにはいかない。
 少なくとも告白せずに「虹捕獲師」を目指すことは、フェアではないだろう。告白は私にとって不利になるかもしれない。結果的にムロエさんの心証を悪くしてしまい推薦が取り消され「虹捕獲師」になれないかもしれない。
それならそれで仕方がないじゃないか。そもそも、アンフェアな精神では虹を捕まえることはできないだろう。アンフェアを黙認するような自分では、虹を増やすことはできないはずだ。
 断じて私は、ブラック企業の清潔そうな顔をした腹黒い社長とは、心のありようが違う。アンフェアなどは、その男に食わせてしまえ。虹の美しさを知らずに、哀れに死んでいく、その男に食わせてしまえ。私はいつになく激していた。アンフェアで腹一杯の男にこそ、実は虹が必要なのだ。虹の浄化が必要なのだ。そのためにも私は告白する。
「そうですか。どうしてもというのならば、渡辺さんの告白を聞かせて頂きましょう」
 ムロエさんは姿勢を正して、私の長い話を聞き始めた。

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