小説『虹をつかむ人』第二章   Novel "The Rainbow Grabber" Chapter 2

第二章

 屋上から自分のデスクに戻る途中で、同僚や部下や上司たちが、ぞろぞろと会議室から出てくるところに出くわした。
 私に気がついた人間は、朝の挨拶をしたり、遅刻の理由を尋ねたり、昼からも会議は続くからと念を押したりして、消えていった。私に気がつかない(または振りをしている)人間も、無言でどこかに消えていった。行き先は社員食堂か、社外の食事ができるところだろう。時計を見ると、そろそろ正午だった。ちなみに、付箋に伝言を書いてデスクに貼ってくれた石川は見つからなかった。
 私は食欲がなかったから何かを食べるような気分ではなかった。昼休みにどこで時間を潰すべきかを考えていると、不意に部長が肩を叩いた。嫌な予感がした。予感は的中する。特に嫌な方の予感は。
「おう、渡辺。昼、何、食べる?」
「食欲がなくて」
「体調不良か? 遅刻は、それか? 風邪か?」
「会議、すいません。朝起きたら風邪気味で」
 まさか鳴り続ける固定電話を見ていて、会議のことを忘れていたとは言えない。
「それは別にいいけどな。連絡くらいできるだろう?」
「すいません」
「昼から、会議は?」
「出ます」
「じゃあ、午前中のダイジェストを伝える」
 結局、部長に付き合わされる羽目になった。会社から五分くらい歩いたビルの地下にある喫茶店に連れて行かれた。昼でも薄暗くて、昭和の頃に流行ったような歌謡曲が静かに流れる店だ。案内されずに席に着くと、ウエイトレスに注文を伝えた。
「俺は日替わりランチで、食後にはコーヒー。お前は?」
「じゃあ、コーヒーだけ」
「遠慮するな。割り勘だから。ははははは」
 部長は悪い人ではない。それはわかるが好きになれない。この人の白髪頭と隙間の空いた黄色い前歯を見ていると、なぜだか「御為ごかし」という言葉が浮かんでくる。全ては自己の利益に還元されるように生きている。誰だってそうかもしれない。そこを気にする私がどうかしているのだろう。
 部長がハンバーグランチを食べ終え、爪楊枝を使い始めた頃に、やっと午前中の会議のダイジェストが始まった。
 簡単に言えば、午前中の会議では、どれくらい売上が落ちているのかを社員に伝えて、大幅なリストラは避けられないことを納得させるための時間だった。それで危機感を煽り、午後からの会議では、建設的な提案を数多く集めようという腹積もりらしかった。
「そういう大事な会議にお前は、事前に何の連絡もなしに欠席したわけだが、そのことの意味はわかるよな?」
 部長の口調は私を責めているというよりも、そういう部下を持った自分自身を嘆いているように聞こえた。
「クビですか?」
「そうなりたくないなら、昼からは売上向上の具体策を、積極的に提案することだ」
「はあ。善処します」
「お前はいつも、それだ。善処、善処、善処。お前は、役人になった方がよかったんじゃないのか?」
「まさか、それはないです。で、部長、うちの部署からは何人クビを切るつもりですか?」
「人聞きの悪いことを言うなよ。早期の依願退職者を募る、と言えよ。まあそうだな、最低でも二人だな。その倍なら残った社員のボーナスも期待できるが……。クビは誰か? 実はもう決めてある。安心しろ。お前の名前はないから」
「はあ」
「それにしても、お前の、そのぼんやりした顔は何とかならんのか? 頭の中もぼんやりだと思われるぞ。なあ、俺にお前の覇気を感じさせてくれよ」
「はあ」
「それからその、ぼさぼさの頭も……。少しは上の受けを考えろよ。部下もいるって言うのに、まったく」
 髪の毛をカットしてセットすることが、上の受けをよくすることなのか。結局それも御為ごかしの一つなのだろう。そんなことよりも、私は誰がクビになるのか、クビにしなければならないのか、そちらの方が気になった。
「クビは、誰と誰ですか?」
「誰にも言うなよ」
 しつこく聞くと、部長は二人の名前を渋々告げた。
 そのうちの一人は石川だった。なぜ石川がクビなのか。その理由を尋ねたが答えは聞けなかった。きっと部長にもわからないのだ。上の誰かが決めたのだろう。
 石川は四年前に社内結婚して、石川の妻は寿退社した。それはちょうど私が離婚した年でもある。昨年石川の夫婦には子供が生まれた。私達夫婦には子供ができなかったので、離婚は比較的円滑に進んだ。石川の妻は出産のせいなのかどうか、詳しいことはわからないが、そのタイミングで難病を発症した。有効な治療法も特効薬も今のところないらしい。私は元妻が今どこで何をしているのか知らない。きっと元気溌剌で、再婚相手を探していることだろう。すでに再婚していても私は少しも驚かない。
 石川は私よりも仕事ができると思う。私がいなければ、そして会社の景気が良ければ、ずいぶん前から石川は課長だったはずだ。今はともかく、近い将来、私を追い抜いて行くだろう。それを私は楽しみにしている。
 もちろん私は他人の人生に関わるとろくなことがないと知っている。だから、石川とは距離を置いているし、必要以上に間合いが近くならないように注意している。
 石川は同世代の若者達とは違う。要領とプライドで生きるタイプではない。不器用だが懸命に仕事と向き合い、地味な成績を確実に残す。ファインプレーもホームランもないが、犠打を重ね、チームプレーに徹する。そういう人間を嫌うことは、私には難しい。
 なぜ石川がクビになるのかわからない。会社は人間を見ていない。石川の中にある会社の未来を、会社は自らの手で摘んでしまおうとしている。そんな会社の売上が落ちても不思議ではないだろう。
 以前、「私を追い抜いて行く石川を楽しみにしている」ということを、まだ結婚していたときの妻に、何かの拍子に漏らしたことがある。すると妻は不満そうに、こう答えた。
「あなた大丈夫? 楽しみにしている? そんな呑気なこと言っている場合かしら? 優秀な部下に嫉妬しない? 負けるものか!という闘志はないの? クビになるわよ」
 私は妻の言葉を聞いて単純に驚いた。そういう考え方があることを初めて知った。私は嫉妬もしなければ、闘志も湧かない。そういうところもサラリーマン失格なのだろう。私が石川よりも、絶対的に上だと言えるものは年齢だけかもしれない。
 私は定年まで、石川の活躍を近くで見ていたいと思っていた。しかし、それは叶わないようだ。部長の話を聞く限り、今のところ私はまだクビにはならないらしいが、その代わり石川のクビが飛ぶらしい。一体、そのとき私はどんな顔をして見送ればよいのだろうか。


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