小説『虹をつかむ人 2020』第十一章 Novel "The Rainbow Grabber 2020" Chapter 11

第十一章

 石川の住むマンションは高級住宅地と公営団地に挟まれた一角にあった。まるで住む場所の双六を見ている気がした。「上がり」はもちろん一戸建てということになるが、石川がそれを目指しているのかどうかはわからない。少なくとも公営団地よりは上昇志向が窺えた。他人の住まいの間取りを全て覗くような趣味もないし、全てを案内されたわけでもないから、確かなことは言えないが、私の住むマンションよりは広いようだった。
 「いらしゃいませ」と笑顔で石川の奥さんが迎えてくれた。奥さんを初めて見たが、高校の野球部の小柄なマネージャーみたいだった。それもお姉さん的とかマドンナ的とかではなくて、「本当は私、女子硬式野球部に入りたかったけど、女子の部はなかったから、男子部員の尻を叩いています。目指せ! 甲子園!」的な感じである。子供たちは男の子も女の子も、ただただ可愛い。なるほど一目で石川夫婦の子供だとわかるから、遺伝と言うのは不思議なものだ。子供たちが一列に並んで恥ずかしそうに「こんばんは!」と挨拶してくれた。子供たちは既に食事を済ませたようで、大人たちだけで食事をした。ちなみに、すき焼きをご馳走になった。私が普段食べないような高い牛肉だった。誰かと食事を共にするというのは久しぶりだった。何だかホームドラマみたいだ。石川の会社の話をしたり(官庁関係の新規事業が軌道に乗ているらしい)、贔屓のプロ野球チームの話をしたり(どこそこのチームの助っ人外国人の方が年俸の割にホームランを打つらしい)、当たり障りのない話をした。石川の奥さんはホステスの役に徹していた。ビールを飲み、ワインを飲み、ウイスキーのソーダ割りを飲み、落ち着いたところで、奥さんが改まって私に頭を下げた。小柄な奥さんが、より小柄に見えた。
「渡辺さん。どうお礼を言っていいのかわかりませんが、本当にありがとうございました。私たち、夫も私も子供たちも助かりました。お礼も遅くなりまして済みませんでした」
 それを見ていた石川も深々と頭を下げた。奥さんの方が石川よりも頼りがいがありそうだった。そんな二人が並んで頭を下げているのを見ると、私はただ笑うしかなかった。
「二人とも頭を上げて。奥さん、石川君からどのように聞いているのかわからないけれど、私は特に何をしたわけでもなかったし。早期退職に手を挙げただけで。ヘッドハンティングされて、今は楽しく仕事をしているので、お礼を言われることもありません。守秘義務が厳しいので詳しく説明はできないんだけれど。それにもともと、石川君の今があるのは、石川君の実力だから。まあ、これからも家族仲良く頑張って」と、われながら詰まらないことを喋った。
 そのあと小一時間談笑して、私は石川の家をあとにした。エレベーターまで見送りに来た石川に、それほど気になっていたわけではなかったのだが、ついでに尋ねた。
「部長はどう?」
「どうって? 渡辺さん、何か、知ってるんですか? 例の件で」
「例の件って? 知っているって? 別に何も。どういう意味?」
「いや。知らないなら、特に何も、それならそれで…大丈夫です」
「俺は何も知らないよ。もう辞めた人間だから。会社のことは何も知らないよ。辞めてから会ったことのあるのは、お前くらいだから。ただ部長には、昔からそれなりに世話になったから。今でも元気かな?と思ってさ」
「あのあと、死神みたいに首を切って人件費を浮かせて出世して、今では取締役です。だから私ごときの立場の人間では、取締役の顔なんて、なかなか見かけません。たぶん元気だと思いますが」
「まあ、あの人のことだから大丈夫だと思うけど」
そのとき丁度エレベーターが来た。私は乗り込んで1階のボタンを押した。「今回は大丈夫、ではないかも…」そう言う石川と一瞬目が合った。「今週何もなければ大丈夫だと思いますよ」と閉まる扉越しに伝えてくれた。
「何もって、何だ?」
 答えを聞く前に扉が閉まった。石川は視線を逸らさなかった。そのまま私は1階に向かって降りていった。
 三日後、石川の読みが外れたことがわかった。夜7時のTVの定時ニュースで元部長(現取締役)の顔が映った。若い女子アナは元部長の名前を、下に「容疑者」を付けて呼んだ。その顔は、皮肉でも何でもなく、なかなか元気そうだった。容疑は官製談合に関連しての贈賄罪だった。首切りでコストをカットして、談合で売り上げを確保していたということか。石川の読みは、実は外れたのではないのかもしれないと思った。そうではなくて、その読みは当たったのではないかと思うと、背筋が寒くなった。

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