小説『虹をつかむ人 2020』第二十七章 Novel "The Rainbow Grabber 2020" Chapter 27

第二十七章

 ムロエは渡辺のマンションのキッチンテーブルに座っていた。渡辺はコーヒーのお代わりを入れようとしていた。背中越しに、渡辺が動いている気配が感じられた。渡辺の動きが止まった。
「ムロエさん。ちょっと留守番を頼みます。コーヒーを切らしたようです。買ってきます。すぐ戻ります。待っていてください」
「いいんですよ、そんな、わざわざ。買いに行かなくても。別に飲まなくてもいいですから。渡辺さん、ここにいてください。それよりも話を……」
 ムロエの言葉が聞こえているはずだったが、そのまま渡辺は急いで外へ出ていった。渡辺が出ていくと、ムロエは一人になった。ムロエは一人になると、元新聞記者のKとの一連の検証を一つ一つ順を追って思い出していた。渡辺に語り漏れたことは、何もなかったことを確認した。ムロエは実際に言葉にしてみた。
「大丈夫。語るべきことはすべて語った」
 ムロエが発した言葉は、キッチンテーブルの上で転がり、天井を漂い、ドアポストの隙間から消えていった、ようにムロエには見えた。しばらく閉まったままのドアを見ていた。それから視線を、さっきまで渡辺が立っていたシンクのあたりまで移動させてみる。ムロエは気がついた。そういうことかと思った。理由はわからないが、渡辺は戻ってこないかもしれない。そこにまだ半分以上残されていたインスタントコーヒーのビンが立っていたから。
 帰ってこない渡辺を、ここでこのまま待っていることに、どれほどの意味があるのだろうかと、ムロエは自問自答した。答えは見つからない。とりあえず、わからないという答えを拵えて、ムロエは自分を納得させた。席を立ち、置かれたままの二つのコップをきれいに洗って拭いて、シンクの脇に並べた。部屋には渡辺の気配が確かに残っていたが、本人が言ったように「すぐ戻ります」とは、やはり思えなかった。ムロエは自分が何もこの部屋に忘れものをしていないことを確認した。そして部屋の電気を消して、ドアを開けて出ていった。ドアが閉まる音を聞いたとき、ムロエは一瞬、施錠は?と思ったが、仕方がない合鍵を持っていないのだから、と自分を納得させた。
 ムロエは自分の部屋に戻った。ムロエは渡辺と同じマンションの二つ上で暮らしている。五分後、ムロエは自分の部屋に戻り、渡辺の部屋と同じような間取りの、同じようなキッチンの、同じようなテーブルのうえで、同じようなコーヒーを飲みながら、ぼんやりしていた。
 一時期、渡辺がムロエの部屋を探していたことを、ムロエはもちろん知っていた。渡辺が見つけられなかったことも知っている。きっとこれからも見付けらえないだろうと思った。人が本気で隠れようとすれば、しかるべき金さえ使えば、ほぼ完璧に消えることができることを、ムロエは知っていたし実証した。
 渡辺はなぜ消えたのか? どこに消えたのか? ムロエには何もわからなかったけれど、こんなふうに思っていた。渡辺はどちらにしても、いつか帰ってくるだろう。それに施錠しなかったドアの件は、何か取られるようなこともないだろうから、何も問題ないだろう。
 今度は自分が待つ番なのだと思った。渡辺が消えたままではないと思う理由は、彼が「虹をつかむ人」だからだ。彼はその役割と責任を放棄しないだろう。彼は、虹をつかむ技術者である自分を、楽しんでいる人だ。ムロエは天井を見上げた。そんなことはあり得ないだろうけれど、もし、このまま消えたままで虹捕獲を放棄するようなことがあれば、資格と免許を剥奪することになるだろう、と。
 ムロエは「今度は自分が待つ番なのだ」と声に出してみた。耳にしてみると、なおさら納得した。いつか、いつになるのだろう。それでもいつか、渡辺からの何らかの接触があるはずだ。私はそのときまで待つべきだろう。頻繁に二つ下のフロアーの部屋を訪ねるべきではない。そんなことをしたら、ムロエは思った。そんなことをしたら、渡辺がこの世の中から消える、と。
 Mが屋上から飛び降りてから、関係者には不幸ばかりが続いた。古い話だからといって不幸が薄れたり、幸福に変わることもない。最後の生き残りの渡辺を死なせるわけにはいかない。渡辺を信じる、とムロエは声にした。

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