小説『虹をつかむ人 2020』第二十五章 Novel "The Rainbow Grabber 2020" Chapter 25

第二十五章

「そこに一体、何が書いてあったのか? 私には、わかりません」
「どういうこと? Wは、あなたに教えてくれなかったの?」
「というより、私が聞かなかったからです」
「なぜ?」
「聞く必要がなかったからです」
「ということは何が書いてあったか、あなたは知っているということになるけど。さっき、あなたは『知らない』と答えたはず。どういうこと?」
「ここに来て、ここで検証しているうちに、私が知っていたことに確証が持てなくなったからです」
「つまり私と話すまでは、Wが書いたことをわかっていたつもりだったけれど、私と話しているうちに、わからなくなった。そういうこと?」
「そういうことです」
「最初、あなたはWの話を聞いて、そこに何が書いてあると思ったの?」
「たとえば『娘の子の父はお前だ』とか」
「『娘の父はお前だ』って当たり前でしょ?」
「違います。『娘の“子の”父はお前だ』です」
「まさか、Mのお腹の子供の父親が、Mの父親だと思っているの? あなたもWも」
「今では、少なくとも私には、その確証はありません。しかし、Wは今でもそう信じているはずです」
「信じる根拠は何?」
「やはり妊娠4カ月です。その相手である未知の人物を、WはMの父親だと思ったのです」
「あなたは私と検証しながら、その可能性が低いと、今では思っている」
「そうです。もしもハードラーの件を救急に通報したのがMの父親であるなら、そもそもハードラーを衝動的に殺そうとしたのなら。Mの子の父がMの父親なら、その動機が消えてしまう」
「そうよね。もしもMの子の父がMの父親なら、Mの自殺はMの父親が原因であり、Mの父親にとっては、ある意味、自己完結する。そうなると、Mの父親はハードラーの件には関わっていないことになる」
「その通りです。でも、同時に検証してある程度の確証を得たはずの『Mの父親がハードラーの件に関与した』ことも、私の中で揺らいでいます」
「なぜ?」
「いまのところ、Wのメモに何と書かれていたのかは、想像するしかないのですが、結果的に、Mの父親は自殺しています。この事実は、何を意味するのでしょうか」
「Mの父親が『娘の子の父』が自分だと認めた、ことになるから?」
「その可能性は否定できない、と。少なくとも、認めたく無いなら、言い訳をすればいいし、説明をすればいいし、もっとはっきり言えば、言い逃れや誤魔化しだって、出来なくはないと思います。古い事実なので、いまさら真実はわかりませんから。そもそもメモを書いた男を、私たちはその男をWだと知っていますが、Mの父親は知らないのです。そんな男が何を書いて渡したところで、破り捨ててしまえばいい。無視すればいいのです」
「自分に疚しいところがなければ」
「そうです。逆に言えば、疚しいところがあったのかもしれない。言い逃れができないほどの。そしてそれを認めて観念した。Mの父親は自分の心に嘘がつけなかった」
「うーん。だとすると、ハードラーの件は振出しに戻るけど……。どうなんだろう」
「わかりません」
「Wの反応はどうなの?」
「この件についてWは、今でも自分は『殺人者』だ、と後悔しています。自分さえメモを渡さなければ、Mの父親は死ななかった。そんなふうに思い続けています」
「でもWの狙いは、Mの自殺に追いやった、つまり、Mの子の父を見つけて糾弾することだったわけでしょ。そういう意味では案外満足だったのかもしれない」
「この件に関してWは何も満足していません。Wはそういうタイプではありません。後悔は、本当にそう思っているからなんです。Wがメモに何を書いたにしろ、それがMの父親の自殺の引き金になるなんて、Wには思ってもいなかったことでしょう」
「それはとてもショックだった、と」
「そうです。Wは一枚のメモをきっかけにして、ただ遠い暗い過去に戻り、本当のことをMの子の父から、聞きたかっただけなんだと思います」
「うーん。メモに何が書いてあったのかしらね。気になるけど、昔のことだから。当時は、どこから見てもこの件は自殺だから、仮に現場にメモが落ちていても、それは文字通り紙くず扱いでしょうね」
「そういえば、Mの父親は列車に飛び込む前に、Wに向かって最後の一言を言ったそうです」
「何を?」
「だったんです」
「『だったんです』? 何が?」
「わかりません。『だったんです』の前に、当然、何か意味のあることを、言い訳や言い逃れではない、真実、のようなものを言ったはずですが」
「でしょうね。だから、何て言ったの?」
「Wに何かを話そうとしたとき、『特急列車が通過いたします』とか『危険ですからホームの中ほどまで下がってお待ちください』とか言うアナウンスがホームに響き、Mの父親の言葉が掻き消されました」
「まったく日本の駅はうるさ過ぎる」
「Wはもちろん『もう一度』と聞き直しますが、残念ながら答えはありませんでした。そして、最後の最後、Mの父親はWを拝んだそうです」
「拝む?」
「ええ、拝んだそうです」
「なぜWを拝むのかしら?」
「わかりませんが、たとえば、感謝とか。ありがとう。ほっとした。罪を暴いてくれて」
「たとえば、Mの父親は罪の意識に苛まれていて、誰かに糾弾してもらって、罪を償い、楽になりたかったから」
「たとえば、そういうことかもしれません」

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