掌編小説『ボリュームを落とす瞬間』 Short Story "The Moment of Dropping Volume"

 彼は雪国の生まれだった。雪国生まれだというわけでもないだろうが、派手なところはなかった。不要なことは喋らないし笑顔も少ない。嫌う人もいない代わりに人気を集めるタイプでもなかったと思う。都会で満員電車に揺られて出勤するような仕事には、最初から向いていなかったのかもしれない。たとえば山小屋の仕事が向いているかもしれない。山小屋にどんな仕事があるのか私には何もわからないけれど。
 そんなふうに彼を思い出すのはなぜだろう。彼が会社から消えたからかもしれない。辞めた理由はわからない。気がつくと彼の姿が消えていた。彼は同期だったけれど、ときどき廊下ですれ違うだけで、部署も違っていたから特に話すこともなかった。
 彼が雪国の生まれであることを私が知ったのは、オフィスビルの周りが薄い雪化粧をしたときだった。背の低い植栽の緑の頭が白くなっていた(それも昼には消えた)。彼はぼんやりと窓の外を見ていた。見ていたのは上から下に落ちる粉雪なのだろう。それともそれらに乗って落ちていく時間かもしれない。彼は私に気づくと軽く会釈して歩き去ろうとした。
「この街で雪なんて珍しいね」
 私の方から話しかけていた。
「そうだね」
 しばらく二人で窓の外の雪を見た。それから、彼は私の顔を正面から見て、安心させるように言った。
「でも、積もらない」
「そう? 雪に詳しいのね」
「**生まれだから」
 その地名は豪雪地帯だと小学校で習ったことがあった。
「雪は好き?」
「好きかどうか…。都会の人にはわからないだろうけど、雪は、ただ降るものだよ」
「じゃあ嫌い?」
「嫌いでもないよ。夜中に降る雪は好きだよ。夜中に降る雪は、音を吸いこみながら降る」
「音を吸いこみながら?」
「**にいた頃、夜中に一人で起きているとき、世の中のすべての音が、ひと目盛ボリュームを落とす瞬間があって」
「ボリュームを落とす瞬間?」
「そう。ラジオとかのボリュームのつまみを少し左に回す感じ。そんなとき窓の外を見ると、大抵雪が降っている。雪は音を吸いこみながら降り続く」
「そうなの? 初めて知ったわ」
「でも」
 彼は言葉を切って、窓の外を、窓の外の空の高いところを見た。
「この街は夜中も騒々しい」
「なるほど」
「この街には音を吸いこめるほどの雪は降らない」
「それもそうね」
 彼との会話はそれで終わった。それは最初で最後の会話だった。ほんの短いやり取りだった。私の周りの音が、ひと目盛ボリュームを落としたような気がした。

追伸

少し早いけれど、2021年のお年玉として掌編小説を書きました。2020年の1年間、ずっと私のnote(私からの手紙)を読んでくれて、どうもありがとうございました。2020年の後半は、暗いつぶやきばかりで、申し訳ありませんでした。2021年は、また小説や随筆を書いていきたいと思います。2021年も、よろしくお願いします。良いお年をお迎えください。

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