小説『虹をつかむ人 2020』第二十二章 Novel "The Rainbow Grabber 2020" Chapter 22

第二十二章

 そこまで話してムロエさんは一息ついた。私の目の前にKさんがいるような気がした。私はコーヒーを入れ直して、ムロエさんの前に置いた。私は何か言うべきだろうと思ったが、言うべき言葉を持たなかった。だからただ黙って、ムロエさんが再び語り出すのを待っていた。沈黙が部屋を支配した。遠くで救急車のサイレンが鳴っていた。その音が高くなり、しばらくすると低くなり、いつの間にか聞こえなくなった。こういう現象を何効果というのだったか? 思い出そうとしていると、いきなりムロエさんが口を開いた。その声は遠い過去からの尋問のように私の耳に届いた。
「Kさんとの検証中に、W、つまり渡辺さんのことも話題になったので、あえてお聞きしますが」
「どうぞ何でも聞いてください。何も隠すことはありませんから」
「ハードラーの首を絞めた?」
 私の言葉にかぶせるように「ハードラーの首を絞めた?」と問うムロエさん。私は、その時、言葉を失った。何も言えない。ムロエさんは、KさんにはWの関与を否定しながら、その可能性を排除していなかったということなのだろうか。
「いいですか、渡辺さん。いいですね、渡辺さん。答えは、イエスか、ノーしかないのです」
「……」
「古い話ですが『忘れた』とは言えないのですよ、渡辺さん」
「……ノー……」
 答えを躊躇したことを責める言葉はなかった。
「そうですか」と、ただ一言。
「信用していない?」
「いいえ。ただ本当のことは誰にもわからない、ということです」
 私は何か言い訳めいたことを言うべきなのかどうか迷っていた。そんな時に、まともな言葉が口から出ることはない。だから黙して、入れ直したコーヒーを飲んだ。特に味はしなかった。
 私の動作を見たのか、見えているのかわからないが、ムロエさんは、目の前にある、私が入れ直したコーヒーを見た。初めて見た、とでもいうような顔だった。そしてカップを手にして一口飲んだ。味わっているようには見えなかった。カップを置くと、私が目の前にいることなど忘れたように、Kさんとの検証の物語に戻っていった。

 私はKさんに改めて聞きました。
「どれだけ言葉を重ねても、仮設、仮説、仮説で、どこにも確証はありません。そうですよね?」
「その通り。謎はあるのに、仮説ばかりで、答えはないわ。だから、どんな仮説でも成り立つし、どんな仮説だって100パーセント否定できない。だから、われわれはMの父親が未遂の殺人者であり、救急への通報者ということにして、話を先に進めても構わない。そうよね?」
「ええ。父親から抗議もきませんから。亡くなっていてはできませんから。それで大丈夫です」
「では…。とりあえず、あなたの話で、ハードラーのその後はわかったわ。気にしていたから、どうもありがとう。それで、Mの父親のその後については、何か情報はある?」
「特に何もありません。Mが亡くなった直後は、Mの両親は学校や警察やマスコミや、そういうことに巻き込まれて心身共に疲れ果てたようです。特に母親の方は心労がたたって、数年後亡くなります」
「当時、私もマスコミの一部として、そこにいた人間として、責任は感じているの。信じられないかもしれないけれど、今でもね」
「でも、妊娠の件は外に漏れないように努力したのですから、もう時効ではないでしょうか」
「ありがとう。でもね、罪には時効なんて、時効のある罪なんて、ほんとは一つもないのよ」
「そういわれてしまうと、そうかもしれませんが」
「今でも痛恨の、私のエラーは、あの週刊誌の記事」
「Mが飛び降りてから一年後、週刊誌に載った『飛び降りた恋人を追って首吊り』という記事ですね」
「記事に『妊娠4カ月』と書かれてしまった」
「でもあの記事では、Mやハードラーを特定することはできなかったと思います。きっとMの遺族とハードラーの親やW以外は」
「だとしても。当時、私は警察の記者クラブを外れていたし、警察の担当者も異動で変わっていたし、あの週刊誌の記者はフリーみたいな人間だったから。でも、そんなことはすべて言い訳。あの記事がMの母親を殺したようなものね。何よりも世間体を重んじる女性だったから。自分の娘と関連付けられないとしても、1パーセントでも可能性があるなら、それはバレていることと同じ。そういうふうに考えるタイプだった。あの記者は、その後、どうなったと思う?」
「どうなったのですか」
「ハードラーの父親が徹底的に潰したみたいね、業界で生きていけないほどに、噂だけど。もちろん命はあると思うけど。ある意味でハードラーの父親は、Mの遺族と似ているのよ。私にはよくわかる。人生のポイントが切り替わったの。明るい方から、そうでない方へ。誰にも何も罪などないのにね。『妊娠4カ月』だって罪ではないわ」

もしあなたが私のnoteを気に入ったら、サポートしていただけると嬉しいです。あなたの評価と応援と期待に応えるために、これからも書き続けます。そしてサポートは、リアルな作家がそうであるように、現実的な生活費として使うつもりでいます。