小説『虹をつかむ人』第六章   Novel "The Rainbow Grabber" Chapter 6

第六章

 私はムロエさんの質問に対する答えを保留した。虹捕獲師を目指すとも目指さないとも答えなかった。ムロエさんも私が即答するとは思っていなかったようだ。
「渡辺さん、慌てる必要はありませんよ。今のお仕事もあることですから、よく考えてからでも遅くはありません。しかし渡辺さん、虹は確実に減り続けているということも忘れないでください」
 そう言うとムロエさんは、携帯電話の番号とメールアドレスが記された簡潔な名刺を残して帰っていった。名刺も身分証と同じように輝いていた。
 私はそのまましばらくキッチンで椅子に座っていた。そして取り留めもなく考えた。
 今の会社にいても、少なくとも私は何も変わらないだろう。会社を大きくしようとも思わず、潰そうとも思わず、ただ淡々と、自分の仕事をするだけだ。ただ、ああいう会議は御免だなと思う。そもそも会社が潰れることを止めることなど、できるのだろうか。潰れてしまう会社なら、何をやっても潰れてしまうだろう。それが自然なのだ。自然に逆らって、無理矢理に延命させることができたとしても、必ずどこかに歪みが生まれる。それがゆくゆくは取り返しのつかない大きな傷になる。その傷を何とかするために、たくさんの血と汗が流される。
 それが比喩であれば、まだいい。
 本当に体の中から血を流す人間だって出てこないとは限らない。それどころか命を落とす人間もいるだろう。人の命と引き換えにしてまで守るべきものが、この世にあるだろうか。あったとしても、少なくともそれは、会社ではないだろう。
 私の上司なら、こんな私のつぶやきを聞けばサラリーマン失格だ!と怒鳴るかもしれない。その通り、私はサラリーマン失格だ。私とサラリーマンとの出会いは決して幸福なものではなかった。だから私にとって、ムロエさんからもたらされた(利益至上主義ではない)虹捕獲師の話は、悪くない提案だった。
 しかしムロエさんに推薦されても、私は虹捕獲師にはなれそうもない。なぜなら私は前向きに生きているとは言えないからだ。前向きに生きてきたとも言えないだろう。さらに私には誰にも言えない過去がある。その過去から私は逃れることができないし、逃れたいとも思わない。それらのことが私を虹捕獲師から遠ざけるに違いないと思った。そういうことを、きっとムロエさんは知らないのだ。知っていたら推薦など考えなかったはずだ。
 私はムロエさんに大事な質問を忘れていた。なぜ私を推薦しようと思ったのか。なぜ私の部屋を知っていたのか。ムロエさんは私と同じように、このマンションに住んでいるのか。私はいつも何か大事なことを聞き忘れ、言い忘れてしまう。
 
 それから十日ほどは何事もなく過ぎていった。
 何度か会議が開かれ、売上向上のためのプランが決定され、各部署の役割が決まり、行動に移されていった。私の仕事も忙しくなり、サービス残業が増え、睡眠時間が減った。誰もが誰かと似たような日々を過ごした。当然のように、部署から笑顔が消え、言葉数も減り、嫌な臭いがこもった。
 一方、リストラの話も水面下では進んでいるようではあった。しかし、今ところ誰かが退職した(退職させられた)ということは、噂にしろ、真実にしろ、私の耳には何も届かなかった。ただ社内メールや社内掲示では「早期退職者募集」は相変わらず続いていたし、注意深くチェックすれば、いくつかの変更点に気がついた社員もいたかもしれない。
 例えば、退職金の額が五パーセントほどアップし、退職者数の枠が無制限に広がり、規定が書き換えられていた(それは早く辞めた者ほど得をするように読めた)。それらは私の会議での発言が反映されているようでもあったが、私の真意とは微妙に異なっているような気もした。回り出した歯車を止めることは、誰にもできそうになかった。
 できるだけ私は空を見るようにした。特に雨上りには屋上で空を見た。虹を見つけるために。でも見つけることはできなかった。ビルの街には虹は架からないのかもしれない。ムロエさんの言葉が蘇ってくる。本当に虹は減っているのかもしれない。

 二カ月が過ぎた。
 夏から秋に季節が変わろうとしていた。売上は伸びず、ボーナスは支給されず、給料の振り込みが遅れ始めた。リストラというクビ切りが、それぞれの部署で本格的に実施されようとしていた。
 その日、朝から降り続いていた雨が昼過ぎに上がった。薄日が差したので、屋上に行った。虹を探して、屋上の手すりに手をかけた。
「飛び降りるなよ」
 後ろから部長の眠そうな声がした。それは偶然とは思えなかった。きっと何か話がある。あるとすれば、それはリストラの話であり、つまり私が石川のクビを切ることなのだ。結局、否が応でも、そういうことになる。私は振り返って答えた。
「まさか。飛び降りるなら、早期退職してからにしますよ」
「飛び降りるとしても、ここはやめといた方がいいぞ。ここは、何だか、つまらんよ。つまらんよ」
 部長は笑った、振りをした。振りの笑いが消えてから、素早く、本題を告げた。
「一週間以内に石川から辞表をもらってきてくれ。話はそれだけだ」
 部長が屋上から姿を消したあとも、私はしばらく屋上にいた。(屋上。高校のころを思い出した。煙草を吸って、その煙をぼんやり追いかけていた。あの延長線上に今の俺がいるのか?)ずいぶん前にやめたはずの煙草が無性に吸いたくなった。屋上か。三百六十度、ぐるりと空を見渡した。ゆっくりと、念入りに、二回も。どこにも虹は姿を見せなかった。今この瞬間、どこかで虹は架かっているのだろうか。それとも、もう手遅れなのかもしれないが。ムロエさんに連絡を取ろうかと迷った。でもまだ早い。まだそのときではない。そう思った。


もしあなたが私のnoteを気に入ったら、サポートしていただけると嬉しいです。あなたの評価と応援と期待に応えるために、これからも書き続けます。そしてサポートは、リアルな作家がそうであるように、現実的な生活費として使うつもりでいます。