小説『虹をつかむ人』第七章   Novel "The Rainbow Grabber" Chapter 7

第七章

 私が屋上からデスクに戻ると、部長の席に部長はいなかった。肩の荷を下ろして帰ったのだろう。隣の席では石川が難しい顔でパソコンのキーを叩いていた。パソコンの横には妻と子供の写真が置かれていた。
 私は石川に「先に帰る。お疲れ」と告げて会社を出た。

 それから一週間後、期限ぎりぎりの日になった。その夜、石川の仕事が一段落するのを待って、私は声をかけた。
「忙しい? 帰りに、どう?」
「珍しいですね。課長から誘うなんて。まあ忙しいですが、肝心のデータが来なければ何もできません。今日は来ないようです。だから結局明日でも同じです。軽く行きますか?」
 石川は私の唐突な誘いに何かを感じたかもしれないが、何かを感じたとしても顔を見ただけではわからなかった。仕事を適当に切り上げて、私達はバーに行った。
 バーといっても、男が女を口説くような小奇麗な店ではない。雑居ビルの3階にあり、大抵エレベーターは止まったままだ。外付けのグラグラと揺れる非常用の螺旋階段で、グルグルと上がっていく。それだけで酔いそうだ。重い扉を開の向こうには、ジャズが流れ、煙草の煙が充満している。
 私がまだ新入社員だった頃、先輩に誘われてきたのが最初だった。ジャズとバーボンと稲垣足穂の好きな先輩だった。先輩はサラリーマンになりきれなくて、結局、いつの間にかドロップアウトして消えてしまった。私は先輩と三年ほど飲み歩いたと思う。たかが三年、されど三年。私はずいぶん影響を受けて、今に至っているような気がする。叶うならば、その店で偶然会って飲みたいものだ。
 私はその店に、ときどき一人で飲みに行く。離婚してからは、その回数が少し増えたかもしれない。石川とも、何度か来たことがある。石川は私の誘いを断ったことがない。いつも石川は「軽く行きますか?」と快諾して、本当に軽く飲んで、一時間ほどで帰っていく。私はいつも座ったまま石川を見送ることになる。それが、なぜだかとても清々しい。
 店のドアを開けるとき、たった一時間で石川のクビが切れるかどうかを、自分に問いかけた。それは素人が虹を捕まえるくらい難しそうな気がした。
ドアはいつもよりも百倍は重かった。
 店の中では、いつもよりも優しいジャズが小さな音で流れていた(女性のボーカルだ)。煙草の煙もまだ少ない。客が少なく、奥のテーブル席が空いていた。私達はそこに座って、オンザロックとソーダ割りを飲み、タバスコだらけの冷凍をチンしたピザをかじり、オイルサーディンの缶詰を突き、ピスタチオを摘まんだ。
 大した話もできないまま、時間だけが過ぎていく。石川はリラックスしているようだった。私も、その振りだけはしてみた。私の姿が、石川の目にどのように映ったのかはわからなかった。
「課長、何か私に話があったんですよね?」
「あると言えばあるけれど、別に今日でなくても構わないさ」
 私は怖気づいたのか。言い出せない。石川の中で、何かが外れたようだった。何かが、今、壊れようとしている。それを必死で堪えながら、私に尋ねてきた。
「課長、はっきり言ってください。私は、私はクビですか? でも課長、妻のお腹に二人目がいるんです。難病のきっかけが一人目だったから、どうしようかと思いましたが、妻は産む覚悟です。ここで、このタイミングで、私がクビになると困るんです。本当に困るんです。ねえ、課長、それでも私はクビですか? クビなら早く言ってください」
 私は石川の小さな叫びを聞きながら、その瞳を見つめた。瞳は今にも雨が降りだしそうでもあり、今雨が上がったところのようにも見えた。
 でも、それはきっと雨上りだろう。私はそこに、虹を見たから。
「なあ、石川。誰が、誰を、クビにするって? 俺が、石川を? そんな馬鹿な。忙しいのはわかっているが、自爆するな。お前らしくもない。自爆するのは、まだ早い、だろ? 確かに俺たちの部署でもリストラは避けられない。それは事実だ。でも少なくとも、まだお前はクビにならない。そして、少なくとも俺は、お前を、クビにしない。したくないし、できない。できても、したくない。わかるか? 奥さんと子供達を大切にしろ。会社に負けるな。お前は俺の部下にしておくのが勿体ないくらい仕事ができる。もっと自信を持てよ。クビになるわけがないと、自信を持つべきだ」
 声に出してみて、初めて自分がそんなことを考えていたことに気がついた。そうか、そういうことを、私は考えていたのか……。私の言葉に、石川は半信半疑だ。
「課長、私は、本当に、クビに、ならないんですか?」
「お前は、本当に、クビに、な・ら・な・い。お前だから、最初に言うけど、辞めるのは俺の方だよ。このことは、まだ部長も知らない」
 私はこれで良かったと思った。これを求めていたのだ。私には正しいことをしているという確信があった。薄っぺらな正義感だろう。そう囁く自分がいる。そうかもしれない。でも、それを発揮するのは、今しかないように思った。仮に、それが薄っぺらだとしても。
 結局、私は石川をクビにしたくない。できないのだ。他の誰もクビにしたくない。それが私の答えだった。
「でもどうして? 課長がどうして? ひょっとして、リストラですか?」
「馬鹿なことを言うなよ。クビではなくて、こっちから辞めてやるんだ。部長と折り合いが悪かったから、丁度いいくらいだ。早期退職だよ。実は、あの会議のときから辞めようと思っていた。だから、あのとき、ああいう発言をしたんだ。だってほら、俺には妻子がいない。守るべきものなんて何もないんだよ。だから気楽なものだ。でも、お前は違うだろ? 妻と子供達を守り抜かなければならない。そうだろ?」
 半分は嘘だったが、話しているうちに、嘘が、嘘でなくなっていくような気がした。
「課長、辞めてどうするつもりなんですか? 失礼ですけど、もう次の会社は、決まっているんですか?」
「当たり前だよ。ここだけの話。絶対に秘密だけど、実は俺、ヘッドハンティングされたんだよ、この前さ。今は、まだ詳しい話をするわけにはいかないけどな。すごいだろ?」


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