掌編小説『スマホのない頃』Short story "When there was no smartphone"
最近私は昔のことを、ときどき思い出す。学校の図書館の本の最後の厚い紙(頁)には、小さな紙の封筒が貼ってあって、その中にはカードのような薄い紙が入っていた。そこには横罫が引かれていて、罫と罫の間には、日付とか、知らない誰かの名前とかが、小さな手書きの文字で書いてあった。貸出カードだ。誰が、いつ借りて、いつ返したのか、その脈々と続く読者の繋がりを、こっそりと覗くことができた。もしも私がその本を借りれば、私もその一部になることができた。私たちは、一冊の本に書かれた文字を通して、初めての体験を共有した同志になる。いわば薄紙は同志の名簿だ。そこで私は逡巡する。私でいいのか。同志として相応しいのか。その本を手にして、ほんの一瞬、迷う(大抵、最後には借りるのだけれど)。
それから私が思い出すのは…。その頃の駅の改札には、伝言を書くための黒板があった。私の近所の私鉄の伝言板にはチョークはなかったはずだ。黒板の左端に縦書きで「伝言を書きたい人は駅長まで。」と白い文字で書かれていた。書きたい人は「伝言を書きたいんですが」と駅長にお願いすると、駅長は勿体つけて、おもむろに白いチョークを引き出しの奥から出してくる(のだろうと思う。私は伝言を書いたことがないので本当のところはわからない)。黒板の下の方には黄色い文字で、こう書かれていた。「30分以上経過した伝言は消します。」と。私は伝言を書いたことがないから、心配することはないのだけれど、30分以上経過して消された伝言によって、すれ違う恋人たちのことを思うと、わりと本気で思い悩んだ(他人事ながら)。
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