小説『虹をつかむ人』第三章   Novel "The Rainbow Grabber" Chapter 3

第三章

 午後からの会議は、午前中の冷ややかな警告が、いい意味でのプレッシャーになったようだ。出席者からは売上向上の色々なプランが提案された。きっと事前に用意していたのだろう。ということは、プレッシャー云々という話ではなくて、個々が危機感を持って働いているということか。それが真っ当なサラリーマンというものかもしれない。
 真っ当なサラリーマンの一人が、前向きで明るいプランを大声で語った。すると会議に出席した誰かが、そのプランを笑顔と拍手で迎えた。なるほど一見すると会議は盛り上がっているように見えた。
 しかし私には、それぞれが競いながら、会社に対する自己犠牲をアピールしているようにしか聞こえなかった。仮に一つのプランを実現できたして、それによって売上が数パーセント向上したとする。それは光の部分だ。影の部分も必ずある。誰も語らないが全てのプランは長時間労働に支えられている。成果主義なのか、インセンティブなのか、サービス残業なのか、言葉はともかく、長時間労働は人間を確実に蝕む。どんなに好きな仕事でも、遅かれ早かれ心と体は悲鳴をあげる。
 それが聞こえているかどうか。それを聞かない振りをしてみても、そんなことに関係なく人間は潰される。鬱病になる、自殺する、過労死する、無差別殺人の加害者になる、エトセトラ。
「殺す相手は誰でもよかったんです。早く楽になりたい。だから死刑にしてください」

 どこかから反論が聞こえてきそうだ。
 仮にそうだとしても、全員がそうじゃないだろう。結局は自己責任。適応できる人間の方が圧倒的に多い。そうでなければ人類は消滅する。そうでなければサリラーマンは存在しない。そうでなければ地球は回らない。
 適応できない奴らは、無能で弱い人間さ。そんな奴らのことは知らないよ。なぜ勝者が敗者の面倒を見なくちゃいけないんだよ。

 私はその反論に反論できない。
 ほとんどの人間は影なんかに目を向けない。そこにあるとわかっていても、誰も目を向けない。そういうものは存在すらしていない。存在していないものは見えない。見えないものは、最初から存在しない。影に入ってしまったとき、人間は初めて影を知るのだ。
 何かが大きく間違っている。どこかで間違った。どこだったのだろうか。そのことを知っていた。知っていたような気がする。もう忘れてしまった。忘れながら生きてきた。生きるために忘れたのだ。今さら思い出して何になるというのか。私は思った。クビになる石川とクビにならない私。どちらが幸福なのだろうかと。

 会社のトップの本音が漏れて聞こえる。
 諸君、会社は潰すわけにはいかないのだよ。人間なんて潰れても構わないさ。だって代わりはいくらでもいるじゃないか。そうだろう?
 そうなのか……。
 そうじゃないだろう。そうじゃないとしても、人間を救いつつ、会社を救うような提案が、私の口から語られることはなかった。そもそも私にはそれだけの能力がなかった。それから何よりも勇気がなかった。
 童話に出てきた、「王様は裸だ!」と告発した子供。告発後、あの子供はどうなったのだろう。子供の末路を知っている読者はいない。きっと告発できない大人になったことだろう。あの子供が備えていた無邪気な正義感も私にはない。ずっとどこかに忘れたままだ。

 ただただ私は午後の会議が早く終わればいいと思っていた。
 目の前の資料を読む振りをして(それはまるで駝鳥が砂に首を突っ込んでいるみたいに見えただろう)、できるだけ目立たぬように待っていた。そうすれば、とりあえず今日が終わるはずだった。
 不意に部長が発言した。嫌な予感がした。そして嫌な方の予感は大抵当たる。
「そろそろ時間も時間だから、渡辺課長の方から最後に一言、建設的な意見をもらって、次回の会議に繋げたいと思う。じゃあ、課長、よろしく」
 私は思い出した。昼間、部長との地下の喫茶店で、売上向上の具体策を提案するように言われていたことを。突っ込んでいた首を皆の前に出した(実は駝鳥には砂に首を突っ込むような習性はないらしい)。
「皆さん、お疲れ様です。今回提案された数々のプランを、プランのままで終わらせてはいけません。それぞれを比較検討し、精査しながら、実現可能なプランへの絞り込みが大切です。次回は、その絞り込み作業に加えて、具体的なスケジュールについての議論が不可欠だと思われます。
 さらにここで念を押しておきたいのは、午前に提示されたリストラ計画についてです。午後から提案されたプランは、全て大幅なリストラ計画を前提にしています。希望的観測として、午後から提案されたプランだけを推進することによって、つまり午前に提示されたリストラ計画を回避しつつ、売上向上を目指すことは不可能ではないかもしれません。
 しかし、いいですか皆さん、リストラ計画と売上向上のための新しいプランを、同時並行的に実施することによって、我が社の成長を一気に加速させることの方が重要です。
 そのためにトップの方々にお願いがあります。早期退職者に対する手厚い、いや、あえて言わせてもらうならば、より分厚い特典をお願いいたします。早期退職者が増加することも、ある意味で会社の成長に繋がるわけですから。そうですよね?
 皆さん。さあ、社員一丸となって、気持ちを新たに頑張っていこうではありませんか!」
 誰かが拍手した。それは部長だった。私の発言の何に拍手したのだろう。私の発言に中身などない。クビになる石川のために、少しでも金額的にプラスになればと考えて発言しただけだ。
 私の発言がトップの耳に届き、実際に退職金が上乗せされるかどうか、そこまでは私は知らない。私は自分の発言に責任を持てない。上司として失格だと思った。そう思ったのは初めてではないが。
 私の優秀な部下は、私の隣に座ったまま、なぜかプランの提案も発言もせずに、ただ熱心にメモを取っていた。石川には石川の壮大な(私など想像もできない)素晴らしい考えがあるのだろう。

もしあなたが私のnoteを気に入ったら、サポートしていただけると嬉しいです。あなたの評価と応援と期待に応えるために、これからも書き続けます。そしてサポートは、リアルな作家がそうであるように、現実的な生活費として使うつもりでいます。