小説『虹をつかむ人』第四章   Novel "The Rainbow Grabber" Chapter 4

第四章

 私が会社から帰ってくると、いつもと様子が違っていた。
 いつもなら、マンションのエレベーターの扉が開くと、左の奥に、私の部屋のドアが見える。しかし、今日はドアではなくて、その前に立つ女性が見えた。
 見知らぬ中年の女性だ。少しダイエットが必要かもしれない。喪服のような黒っぽいスーツを着ている。髪の毛はきちんとまとめられていて一本も乱れていない。寡黙で仕事のできる葬儀場の受付みたいだ。涙にまみれた感情的な弔問客に叱られることもないだろう。
 近づいて行くと目が合ったような気がした。ちょうど私の従姉にそういう年格好の女性がいるが、その従姉ではない。それは顔を見ればわかる。誰だかわからないが、私の部屋の前にいるのだから、きっと私のことを待っていたのだろう。
 何かの勧誘か集金人か(ちなみに従姉は保険会社の外交員をしている)。特別悪い人間には見えなかった。しかし、オートロックの玄関ホールを抜けて、私の部屋の階まで辿り着くだけの狡猾さは備えているようだ。いや、そうでもないかもしれない。このマンションのどこかの部屋に住んでいるのかもしれない。そうだとしたら冷たく追い返すわけにはいかない。マンション内でトラブルを起こして、結果的に住みにくくなるのは困る。良くない噂はすぐに広がる。そこまで考えたところで、私は自分の部屋の前に到着していた。喪服の女性と見つめ合うことになった。若い頃は美人だったのかもしれない。
「こんばんは。私に何か御用ですか?」
 私は感じのいい人のように口を開いたが、うまくいったとは思えない。ややぎこちなかったかもしれない。
「こんばんは。渡辺さんですね?」
「はい、渡辺です」
 喪服の女性は私の姓を知っていた。ドアの横にはネームプレートがあるのだから驚くことでもなかった。続けて私に向かって確認した。
「渡辺、浩さんですね?」
 喪服の女性は私の姓と名を笑顔で告げた。ネームプレートには名前は書かれていなかった。なぜ知っているのかと考えると、思わず冷やりとした。なぜ姓名を言い当てることができたのだろう。ひょっとしたら(私が忘れている)私の知り合いなのだろうか。
「はい、そうですが……。失礼ですが……、どちら様でしょうか?」
「申し遅れました。私、ムロエと申します」
「ム・ロ・エさん、ですか? 失礼ですが、以前に、どこかでお会いしていますか?」
「いいえ。お会いしておりません」
「ですよね? それで私に、どういった御用でしょうか?」
「大切なお話があります」
 大切? 誰にとってどのくらい大切な話なのだろうか。ムロエさんが、仮に同じマンションの住民だとしても、ややこしい話は御免だった。
「あのムロエさん、悪いとは思いますが、宗教とか、セールスとか、そういうのは興味もないし、お金もないし、ちょっと困るんですが……」
「ええ、もちろんそうですよね。なるほど、宗教とかセールスとか、それらはもちろん困りますね。私だって困ります。でも私は、そういう人達とは全く違います。安心してください。もっともっと大切なお話です。留守番電話やファックスやメールでは明かせない、大切なことをお願いに参りました」
 そういうことか。
 朝、固定電話に何度も何度も電話をかけてきたのは、ムロエさんだったのだ。といっても、ムロエさんの言う大切なお話もお願いも、まだ何もわからなかった。このまま立ち話もできないだろう。とりあえず部屋の中に入ってもらった。

 私達はキッチンのテーブルで向かい合って座った。私は歓迎するわけではないが、コーヒーを淹れて、ムロエさんに勧めた。誰かが部屋にいて、その誰かにコーヒーを淹れるのは、思い出せないくらいに久しぶりだった。
「渡辺さん、お構いなく。恐れ入ります。頂戴します」
 ムロエさんはコーヒーを一口だけおいしそうに啜り(それほどおいしいわけはないが)改めて私に向き直った。
「自己紹介をさせてください」
 そう言うと、ムロエさんは身分証をポケットから取り出して、私に手渡した。質感やサイズはパスポートに近かった。ただし表紙は派手で、光の加減で七色に輝くような処理が施されていた。
 表紙をめくると、色々書かれていた。「公益財団法人虹捕獲研究所」とか「一級虹捕獲師(The Rainbow Grabber, Master)」とか書かれていた。そこにはムロエさんの顔写真も貼られていた。その顔は、目の前の実物よりも少し若いように見えた。
 さらに、写真の下に、氏名(室絵**/** Muroe)、生年月日(私の従姉よりも若いが私よりも年上だった)、発行年月日が色々と書かれていた。
 虹捕獲研究所? 虹捕獲師? The Rainbow Grabber, Master?
 この研究所では虹捕獲師を養成しているのだろうか。そしてムロエさんは虹をつかむことができるというのだろうか。どういうことなのだろうか、わけがよくわからない。
 私は率直に質問した。
「『一級虹捕獲師』とは何ですか?」
「とても良い質問です。その質問にお答えする前に、最近、渡辺さんは虹を見ましたか?」
「虹ですか? そうですね、そう言われてみると、最近見ていないような気がします」
「その通りです。それは渡辺さんの気のせいではありません。研究所の科学的な調査によれば、過去三十年間の統計を見ても、虹の発生件数は激減しています。仮に虹が生物なら、すでに絶滅危惧種に登録されているはずです。それは日本国内に限らず、海外でも似たような傾向が見られます」

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