小説『虹をつかむ人』第一章 Novel "The Rainbow Grabber" Chapter 1

          【noteの読者のための前書き】
 『虹をつかむ人』は6年前の夏に書いた小説です。同年冬に自己都合で会社を辞めて無職だった夏に書きました。そして、ある新人賞に送りました。結果は? 作家としてデビューしていないことが答えです。過去の作品をnoteに再掲載することの、読者に対する倫理的・同義的な責任はわかりません。しかし落選した作品の著作権は作者に帰属しますから法律的な問題はないはずです。私は自分の作品をより多くの読者に読んでほしいと思っています(たとえ落選作品でも)。今回noteに再掲載するにあたり6年振りで読み返しました(あえて追加訂正はしていません)。そして内容を完全に忘れていました(自分で書いたのに)。ですから今回の「第一章」を一読者として興味深く読みました。もちろん続きも掲載するつもりです(お楽しみに)。

第一章

 朝起きて、顔を洗っていると、電話が鳴った。
 基本的に電話には、固定だろうが携帯だろうが、出ないことにしている。なぜ出ないのか。それはつまり要するに……。以前、電話に出てしまって、詐欺に巻き込まれたというわけではない。変質者に追いかけられたというわけでもない。そもそも電話に出ないので、そういうことに巻き込まれる恐れは非常に少ない。それでは、なぜ出ないのか。一人暮らしだから防犯のために注意している、という理由は、少し当たっているような気もする。
 しかし結局、話したくない相手とはなるべく話したくないからだ。精神衛生上、嫌なことをするのは、体に良くないだろうし、そもそも時間の無駄である。私はこれからも生きていくだろうが、生きている人間とはなるべく距離を置きたい。生きている人間ほど、たちの悪い者はいない。
 例えば携帯電話が鳴ったら、まず相手が誰なのかをディスプレイで確認する。登録していなければ、そこには単なる数字の羅列が表示されるだろう。数字の羅列が相手なら、電話には出ない。相手がメッセージを残せば、それを聞いてから、かけ直すこともある。しかしその確率は限りなくゼロだ。それでは携帯が鳴って、ディスプレイに登録された人名が現れたら出るか、というとそうでもない。人名を見て、出るべき相手なのかどうかを判断する。登録されている人名の九割には出ない。それでは、なぜ登録するのか。それは出るべきではない相手をディスプレイで確認するためだ。相手がメッセージを残せば、それを聞いてから、かけ直すこともある。先ほどの確率より少し高いが、ほとんど変わらない。
 ときどき、「用事があるからかけているのに、なぜ出ない! メッセージを残したのに、折り返しかけてこないのは無礼だろう!」と怒る人間がいる。そうやって怒る人間は、大抵の場合、勤務時間外や休日にかけてくる上司だ。そういう相手には、適当に誤魔化して謝っておくしかない。まともに相手にしていては、こっちが疲れる。電話をかければ必ず出るとか、かけ直すのが当たり前だと思っているような、パワハラまがいの人間に礼儀を口にする資格はない。そういう人間が自分の上司である悲劇は残念ながらよくある。
 電話が鳴り続けている。
 鳴り続けている電話は、携帯ではなくて固定の方だ。固定電話! 二十年ほど前に買った留守電とファックスがついている電話だ(私は固定電話を買って、自分で設置してから、いつどこの誰へファックスを送信しただろうか。いつどこの誰からファックスを受信したただろうか)。それが鳴り続けている。電話に出ないという私のルールは、もちろん固定にも適用される。
鳴り続けている電話を見ながら、今かけている人間は誰だろうと想像する。固定にかけてくる人間は携帯よりも限られている。昔ながらの紙の電話帳には載っていない。新しく知り合った人間には携帯の番号しか教えない。だから普通に考えると、古くからの友人、実家の家族、携帯を持つ前から交際していた誰かということになる。
 しかし用心深く考えると、誰かが不正に入手したリストの中に、私の固定電話の番号があって、今、まさにそれを見ながら電話をかけているところかもしれない。想像は悪い方へ膨らむ。この電話は相手の番号がディスプレイされるタイプではないので、結局、かけているのが誰なのかわからない(ディスプレイされてもわかるとは限らない)。
 当然、私は受話器を取らない。しばらく鳴り続けると、そのまま留守番の応答音声が流れる。相手はメッセージを(残したければ)残すことになるが、今回は応答音声が流れた途端、相手はメッセージを残さずに電話を切った。誰だったのかという疑問は残るが、仕方がない。メッセージを残していないということは、たぶん、その程度の電話だったのだ。
 電話が鳴った。
 先ほど電話を切った人間が間髪を入れずに、また、かけてきた。そう思った。まるで私が電話の前にいることを知っているかのように。今度もメッセージを残さずに切った。誰が何のために固定電話にしつこくかけているのだろうか。私は少し気味が悪くなった。
 電話が鳴った。
 きっと先ほどの人間だろう。私が受話器を取るまで、かけ続けるかもしれない。そこで私は間違い電話の可能性について考えた。留守番の応答音声には私の個人名は流れない。機械的で中性的な声が「ただいま留守にしております」と告げ、ファックスを送るか伝言を残すかの選択を迫る音声が流れるだけだ。仮に相手が間違い電話をかけてきても、応答音声を聞いただけでは気がつくことはない。メッセージは残されず、電話は切られた。
 電話が鳴った。
 私はずっと固定電話を見ているわけにもいかない。そろそろ会社に向かわなければ遅刻してしまう。素早く身支度を整えて、部屋を出た。

 私鉄と地下鉄を乗り継いで会社に着いた。壁の時計を見ると九時半だった。遅刻はしていないはずだが、私のデスクの周りの人間は一人も見当たらなかった。私以外が全員遅刻だとは考えにくい。デスクに付箋が貼られていた。付箋には、見慣れた部下の文字で、こう書かれていた。
「渡辺課長 おはようございます。九時から会議です。先に会議室へ行っています。石川」
 石川の人懐っこい笑顔が浮かぶ。それはまるで高校球児だ。実際に野球していたのだろうか。がっちりタイプで肩も強そうだ。小柄だが足は速そうだ。打順は二番で、守備は二塁か。それならいけそうだ。
 朝の電話は石川がかけてきたのか。それはあり得ない。石川は私の固定電話の番号を知らないはずだ。親切心でかけるなら携帯だろうし、必ずメッセージを残すだろう。
 直属の上司である部長の可能性はどうか。それもゼロに近い。固定電話の番号は知っているが、携帯にかける方が早い。そもそも遅刻しないように電話をかけてくれるほど、部長は親切ではない。
 あの電話が鳴るまでは、会議のことは覚えていた。電話に気を取られて、ついでに時間も取られて、もう会議には間に合わない。ぼんやりデスクに座っているわけにもいかないが、会議のことも気になるので、仕事をする気にもならない。階段で屋上まで休憩をしに行った。出社早々休憩とは、我ながら呆れるが……。
 エレベーターで知っている顔に会うのも困る。誰にも会わずに屋上に辿り着いて、手すりにつかまって下を見た。なるほど落ちれば簡単に死ぬことができるだろう。私の記憶の中では、そういうことになっている。そのままの姿勢で、今朝の会議の議題を思い出そうとしてみた。確かではないが、業績回復のための何かを提案するようなことだったと思う。
 会社は業績が落ち続けたら倒産するだろうか。人はいつか死ぬ。ここから飛び降りなくても。会社だって同じじゃないか。このまま時間をかけて会社が息絶えても、それはそれで仕方がないような気がした。同時に、そんなことをサラリーマンは考えてはいけない、だから私は失格だと思った。


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