小説『虹をつかむ人 2020』第二章 Novel "The Rainbow Grabber 2020" Chapter 2

第二章

 6年前、私はキッチンテーブルで辞表を書き、会社を辞めた。会社からの早期退職の勧めに従ったカタチだったから、退職金が割り増しされた。職業安定所での失業保険の手続きなども終わり(会社都合退職なので)給付金はすぐに振り込まれた。私は認定日を何度も無事やり過ごし、仕事を探す振りをして、時間を稼いだ。何のための時間稼ぎか。私はムロエさんの電話を静かに待っていた。
 しかし電話は石川からだけかかってきた。私が早期退職して(そのいい意味での波及効果として)首が繋がった元部下の石川からは、頻繁に電話がかかってきた。退職寸前に「ヘッドハンティングされたから」と伝えたこともあり、そういう話の流れで石川と会話をするため、私は物語を作り続けた。
 その間、ムロエさんからの連絡は何もなかった。ムロエさんの推薦なくして、虹捕獲師にはなれない。私の読みは見事に外れた。あの告白をして、すぐに、何らかの返事がムロエさんからもたらされるものだと、確信めいたものがあった。しかし一切電話も手紙も訪問もなかった。実は私は、一度だけムロエさんの部屋を訪ねようとしたことがある。ムロエさんに最後に会った日、ムロエさんはこう教えてくれたからだ。
「渡辺さんがお察しの通り、私はこのマンションに住んでいます。二つ上ですが。研究所が用意した、そうですね、いわば社宅のようなものです」
 私はムロエさんが何号室なのかを尋ねるのを忘れていた。ムロエさんからの連絡を待ちくたびれた私は、辞表を書いた一週間後、二つ上の階まで非常階段で上がり「室絵」という表札を探した。「室絵」はどこにもなかった。1枚でもネームプレートが空白のドアがあれば、表札を掲げずにその部屋に住んでいる可能性もある。またはプレートを外した、つまり(理由は不明だが)引っ越した可能性もある。しかしドアには全て(「室絵」以外の)名前があった。そして別の可能性が生まれた。「室絵」は偽名か? 「私はこのマンションに住んでいます。二つ上ですが」が嘘なのか? ちなみにマンションのロビーにある集合ポストには全て(「室絵」以外の)名前があった。私はお手上げだった。見事に振出しに戻った。
 このマンションは(私が住む前、過去に何か事件があったらしく)人の出入りのチェック、防犯のセキュリティーは五つ星だと近所でも評判だ。仮に管理人さんに頼んで防犯カメラの映像を見せてもらえたとしても(1000パーセント無理だろうが)、仮に偽名で住んでいるとしても、そこにムロエさんが映っているとは限らない。変装するまでもない。女の人は誰でも簡単に化けてしまうから。私はムロエさんが、偽名を使ったり、ここに住んでいると嘘をついたとは思わない。そもそも私に嘘をつく理由がわからない。私は待ちくたびれる前に、すぐに行動すべきだったのだ。その日のうちにでも。
 ムロエさんと出会ったファーストコンタクトの時のように、私には、ただ待つことしかできない。だから待った。他にすることも、したいこともなかったので(失業保険をもらうためというのが主な理由ではあったが)、適当な仕事に応募して、適当に履歴書と経歴書を送り、適当に面接を受けて、最終的には落ち続けた。最終面接に残ったこともあったが、落ちるように対応した。無駄なことをしている気分だったが、少なくとも私の代わりに誰かの職業が安定したのだから、それはそれで意味のあることだったと思う。職安の担当者は私の就職活動履歴をパソコンのモニターで見ながら首を傾げ「なぜですかね。まあ気落ちせず、次、頑張りましょう」と励ましてくれた。
 半年後、失業保険の支給が終わった。職安に行く理由がなくなった。通帳には退職金と支給された失業保険が入金されていて、毎月の生活費が出金されていた。まだまだプラスだった。あと半年か。節約すれば9カ月程度は何も働かずに暮らせそうだった。私は生きるのにほとんど金がかからない。ときどき飲むくらいで、趣味らしい趣味もない。読書が趣味かもしれないが、図書館で借りるから本代もかからない。美食家でもファッションリーダーでもない。服なんて何年も買っていない。結婚していたときから妻の方が使うのは得意だった。
 石川からハガキが届いたのも、その頃だった。「今年もよろしくお願いいたします」というメッセージ付きの家族写真(奥さんと子供たち)だった。そして、そのときポストには待ちに待った連絡が何の変哲もない一通の封書として届いていた。差出人には「室絵」と記されていたが差出人の住所はどこにもなかった。

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