プラネタリウムで居眠り
Jの話をしようと思う。でも結局それは私の話をすることになるのかもしれない。
話は四十年ほど前までさかのぼる。Jが大学を卒業する間近のある日、同じ文学部の先輩がJに電話をかけてきた。先輩とは講義で一緒になることはなかったが文芸サークルで知り合った。
「卒業後の進路は決まったか?」「特に何も」「就活していないのか?」「会社勤めに向かなくて」「自覚があるだけましだな」「漱石ゼミの教授からは院を勧められました」「院に行くのか?」「何となく気乗りしなくて。漱石は好きですけど」「院の先を考えると食えるかどうか」「そもそも調べ物は卒論で懲りましたから」「で、どうするつもりだ?」「卒業しても今の本屋のバイトを気楽に続けるつもりです」「フリーターか?」「まあそうです。四年間続けて、今年は店長代理になりまして」「なるほど」「少しは昇給もしましたから」「暇なら手伝ってくれ」「それほど暇でもないですけれど」「忙しくて手が回らん」「ちなみ何をするんですか?」「コピーライター」「何ですか? それ。ゼロックスか何か、新しい複写機ですか? ハッキリ言って僕には無理です。どうせ怪しい物を売って歩け、とか言うんでしょ? 無理です、営業なんて」
先輩はコピーライター(ざっくり言うと広告文案担当者)の何たるかを語り始めた。語り終わるころ、Jは先輩の紹介で先輩の勤める零細広告会社に入ることになった。あっという間にそういうことになった。Jは狸や狐にばかされたような気分だった。でもJと先輩は波長(というかウマ)が合った。少なくともJはそう感じた。先輩が自分を騙すとも思えなかった。一体何のためにJを騙すというのだ。
先輩の勤める会社は、大手広告代理店の下請けの、そのまた下請けの、明日にも潰れそうな制作会社だった。社長が営業を兼ねていて、先輩は広告文案担当で、経理の若づくりの女の人は社長の愛人で、広告意匠担当(グラフィックデザイナー)は大手広告代理店勤務の経験がある年齢不詳の男の人で、短大を出たばかりのアシスタントと不倫していた。
文芸サークル時代のJの(詩だか短歌だかの)文才を忘れずにいた先輩は、即戦力として使えると判断して連絡してきた。そういうことらしい。文才云々は嘘も方便で、安い給料で使える若者なら誰でも構わなかった、というところが真実だろう。もちろんJにだってわかっていたのだろう。どちらにしても大差ないことも。
Jは十年間その先輩の下で働いた。そのころのことについてJは以前こう語った。
「最初は自分の書いた文章が活字になって、商品カタログや雑誌広告として誰かに読まれることが不思議だったし、それなりに楽しかったな。文才なんかないけれど自分に向いている仕事かもしれないと思った。タイムカードもないような、いい加減な会社だったけど九時の出社時間に間に合うように無遅刻無欠勤を続けた。たとえ最終電車に乗って帰っても翌日は遅刻しないように出勤した。いつも一番早くに出社して会社の鍵を開けた。週休二日は守られず、徹夜もあったし、半年間無休で働いたこともあったなあ。その割には月給が少なくて賞与も期待できず、給料の遅配も稀ではなかったから、今でいうところの、やりがい搾取のブラック企業だったんだろうけどさ」
そこで過ごした十年間を総括して、Jは、こんなキャッチフレーズをつけた。
「文化祭の準備に忙しい放課後の興奮」
そもそもJは仕事をしている気分ではなかったのだろう。だから潰れそうな会社で十年間も広告文案を考えることができたのだ。休みや給料が少ないことはJにとっては大して問題ではなかったのだ。
しかし、放課後は放課後で、興奮は興奮だ。長すぎた放課後は終わり、ついに興奮も覚めるときが来た。
ある日、会社はあっけなく潰れた。誰かが会社の金を持ち逃げしたからだ。
Jは無職になった。三十二歳の夏だった。先輩は奥さんの実家で、家業の農家を手伝うことになり、筆を折り、田舎に引っ越した。「来年は新米を送るから」という最後の約束は果たされないままだ。
私がJと付き合い始めたのは、その少し前、Jが三十歳になったころだったと思う。Jが勤める会社にいた「短大を出たばかりのアシスタント」というのは、実は私の(友人というほどでもない)知人だった。その知人の同僚がJだった。
知人とJがオープンカフェでランチしているときに、私が偶然そこを通りかかり、私とJは出会った。私は最初、「知人の彼氏にしては、ずいぶんボンヤリしている男だな。釣り合っていない」と心の中で思った。知人はJを「彼氏ではなくて、ただの同僚なの。未来永劫に」と紹介した。そんなに強調しなくても(そりゃそうだろう)と思った。
そのあと私も同席させてもらって何かを食べたのだろうか。記憶は定かではない。それとも、久しぶりに偶然再会した知人との盛り上がらない(そのうえボンヤリした冴えない男を前にしての)会話の面倒臭さを察知して、そのままどこかに消えたのかもしれない。そっちのほうが十分あり得る。
それはそれとして、そのときが私とJとの出会いで付き合うきっかけだった。もちろんいきなり二人の交際が始まったわけではない。どうやって連絡を取り合ったのかは今となっては定かではないが(当時の私はずいぶん定かではない人生を歩んでいたようだ)、そのあとJに何度か会ううちに、ボンヤリとした存在感のない人という第一印象が、だんだん空気のような居心地のいい人に変わっていった。つまり、男らしい人が苦手な私には、最適な人だったということになる。
それから付き合って六年、ついに私はJと結婚することになる。事実婚でも構わないけれど、お互いに結婚するつもりはあった。だから市役所に婚姻届けを出せば結婚することはできた。しかし住む家、住む部屋がなかった。
Jは独り暮らしだった。私は郊外のマンションで母親と暮らしていた。私がJのワンルームに同棲することはスペース的に無理だった。Jが私と母親が住む3LDKに同居することはスペース的に、というよりも精神的に難しかった。私も母親も働いていたが、Jはそのとき無職だったから。Jは三十二歳で無職になってから、派遣社員として四年間は印刷会社で文字の校正の仕事をしていた。でも派遣切りで無職に逆戻りしていた。
私は結婚相手に三高を求めるほど身のほど知らずではなかったから、二つ年上の相手が無職でも特に問題はなかった。そのうちにまたJが働くだろうと思った。
Jは高学歴ではなかったけれど現実に対して思考停止するタイプではなかった。痩せていて眼鏡をかけていたが持病はなかった。飲む・打つ・買うとか、そういう世界から最も離れていた。Jは、ときどき胃薬を飲み、ときどき鬱になり、ときどき野良猫を見つけて「飼いたい」と言う、男らしくない人だった。
私の母親はJが無職と知ったら結婚を許さなかっただろう。私は反対されても結婚しただろうが、「母の手ひとつ」で育てられた娘としては、そういう駆け落ちめいたことはなるべく避けたかった。そもそも、そんな年齢でも時代でもない。そういう事情もあって、私は新居を、Jは職を探した。私が三十四歳、Jが三十六歳。近所の桜はまだ蕾だった。
私たちにはお金がなかった。借金もなかったが、その代わり貯金も一銭もなかった。そのうえJには仕事もなかった。私たちは最初から結婚式とか新婚旅行とかは考えていなかった。そのための資金不足ということよりも、そういうことに私たちには興味がなかった。それより何より私たちには新しい暮らしのためのお金と住む場所が必要だった。
もちろん結婚式とか新婚旅行とかにお金を費やす新婚さんたちを私たちは否定しない。要するに彼らには潤沢な資金があるのだ。
私の新居探しは桜が蕾のころに始まったが、桜が咲き始めるころになっても少しも進まなかった。新居の条件は家賃が安いことはもちろんだが、母親のマンションから距離が近いということも必須だった。私が結婚すれば母親は独り暮らしになるのだから、そのことを考える必要があった。
いきなりJと母親が同居というのは、とりあえず回避したかった。仮に私が三人で住める場所を見つけ、仮にJが仕事を見つけたとしても、さらに将来的にそうなるだろうとわかっていても、その当時の私は同居を一時保留したかった。はっきり言えば母親から物理的にも精神的にも距離を置きたかった。だから母親との位置関係としては、文字通り「スープの冷めない距離」に私とJの新居がある、というのが理想的だった。
しかしそんな理想が簡単に見つかるはずもない。理想どころか、そもそも選択肢がない。やはり順番としては、Jの仕事が決まって、ある程度のお金を貯めて、新居を見つけて、それから結婚する。それが世の中の常識なのだろう、と諦めかけていた。
葉桜になるころ、私に僥倖が訪れた。
私は新しい、いや唯一の選択肢を見つけたのだ。気分的には新大陸発見!というくらい感動的だった。神様はいるかもしれない、と思ったほどだ。その神々しい選択肢は市役所にあった。市役所で私に発見されるのを今か今かと待っていた。今となっては何のために何の用事でそのとき市役所に出かけたのか覚えていないが、その申込書は(国民年金とか国民健康保険とか市民税とかの記入すべき雑多な書類とともに)カウンターに並んでいた。
市営住宅申込書(ホチキスの中綴じで五十ページほど)。
そうだ、そうだ、そうだった。公営団地があるじゃないか。民間の賃貸ではない選択肢として、まさに金銭的に恵まれない私たちのような市民のための住宅があるじゃないか。忘れていた。盲点だった。ちなみにJは隣の市に住んでいた。もちろんJの市にも市営住宅はあるが、スープはきっと冷めるから選択肢にはならない。
早速、私は申込書を持ち帰って穴が開くほど読み込んだ。そのとき初めて、申し込んだあとで抽選が行われることを知った。くじ運は良くはないが、だからといって諦めるわけにはいかない。申込書には入居者募集住宅一覧があった。そこに3LDKがあった。住所はスープの冷めない距離だった。一九六三年に建てられた四階建の四階がその部屋だった。一九六三年といえば、ちょうどJと私の真ん中に生まれたことになる。古いことは古い。エレベーターもない。しかし実に安い。近傍民間賃貸住宅の同じような3LDKの間取りで、家賃は三分の一程度(後日、公団住宅も調べたが市営のほうが断然安い)。私はJにも母親にも相談せず、すぐに申し込んだ。そんなことをしている間に、その部屋が逃げていくような気がしたから。
一カ月後、見事に「当選」の葉書が、入居のための書類とともに届いた。一生分の運を使い果たしたと自覚したが後悔は微塵もなかった。私は新大陸に上陸した気分だった。そのとき窓から蝉の声がした。どこかで蝉が鳴いていたのを脈絡もなく覚えている。
入居のための書類によれば、決められた秋の日までに入居を完了しなければならない。それまでに婚姻届の写しも含めて、煩雑な書類をそろえなければならない。たとえばJは北国の実家から戸籍抄本の写しを取り寄せた。たとえば私は母親と住むマンションが母親の不動産であることの証明書を用意した。保証人は渋る母親に無理矢理に頼んだ(この時点でも母親はJの無職を知らない)。意外なことに、Jが無職であることは入居に関して特に問題にはならなかった。
ドタバタが終わって決められた秋の日に入居したのはJだけだった。Jは着の身着のまま、ボストンバックに身の回りの物(文庫本、毛布、普段着、下着、歯ブラシ、その他いろいろ)を詰め込んで、友達の部屋に泊まりに行くように、私たちの市営住宅の部屋のドアを開けた。カーテンもテレビも天井照明もエアコンもテーブルもイスも何も無い部屋だった。その夜からJは薄い毛布にくるまって眠った。
その夜から一週間、私はまだ母親と暮らした。
市営住宅に申し込んで、抽選の結果、当選した私たちは住む場所を得た。そのことを母親は喜んでくれた。相変わらず、Jとの結婚そのものや、結婚式や披露宴をしないことについては批判的だったが。「娘さんをください」的な挨拶もあったような、ないような(それを言い出せばプロポーズだって似たような)感じだったのだから否定的になるのも無理はない。そういう母親の感情を考えると、当選してすぐに母親を置いて新居に引っ越すことはできなかった。もちろんJは私が遅れて入居することを理解していた。Jにとっては独り暮らしの延長のような気分だったのだろう。
当時のJは訳あって実家と絶縁状態だったから、結婚済みの葉書を送っただけだった。私の母親のために記せば、新居の家財道具一式は、天井照明もテレビもエアコンもガスコンロも冷蔵庫もカーペットもカーテンも卓袱台もファックス付き電話も、母親からお祝いにもらった現金で私が買ったものだ。温水洗浄便座も目覚まし時計も体重計だって。それに比べればJの実家からは一切何も(この先は割愛)。
母親の心情を慮るうえで絶対に忘れてはならないこと、それは、それまで母親は独り暮らしをしたことがなかったということだ。母親はお嫁に行くまで実家で暮らし、結婚してからは夫と暮らし(娘の私が生まれて)、父と離婚して娘の私と二人で暮らした。母親には恩がある。しかし、悪いとは思うけれど、私は何かと厳しい母親と離れて、世の中の若い娘がそうであるように、気ままな独り暮らしをしたかった。もちろん結婚は独り暮らしではないが、Jと暮らすのは母親と暮らすよりも気楽だと思っていた。
母親と暮らした最後の一週間の、最後の日の朝に、特別な何かがあったというわけでもないけれど、こう言って送り出してくれた。
「あなたも苦労すると思うけど体を大事にね」
私は正確には覚えていないけれど、こんなふうに返したと思う。
「自転車で十分もかからないのよ。私はマンションの合鍵は持っているし、母さんに新居の合鍵も渡したでしょ? 週末には帰る。遠慮せずに遊びに来て」
私はそんなふうにして引っ越した。もちろん新居には家電はすべてそろっていた。Jが無職で助かったのは、冷蔵庫とかの家電が届くときとか、立ち会いが必要なガスとか電話とかを始めるときに、必ず在宅していたことだ。働き手の私が仕事を休むわけにはいかない。ちなみにJが出かけるのは職安と市営図書館に行くときくらいだった。
市営図書館は市営住宅から歩いて十分くらいのところにあった。私鉄の駅前にある廃墟のような四階建てのビルの三階にあった。一階には郵便局と市役所の支所があって、二階には公民館があった。ビルの二階の出入口と高架の駅の出入口が錆び付いた連絡橋でつながっていた。私は私鉄で会社に通っていたので、会社帰りに立ち寄ることもあった。
図書館はJに言わせれば「僕の卒業した高校の図書館より狭いかもしれないな。蔵書は質量ともに大したことはないけど、でもまあ居心地は悪くない。全然悪くないよ」という親密な空間だった。Jは職安に行かないときにブラブラと図書館に通った。我が家の電気代とか冷暖房費を節約する意味もあったと思う。夕方、私が帰ってくる時間に合わせて一緒に帰ったことが何度もあった。
ちなみにそのビルの四階にはプラネタリウムがあった。ビルの外観を見れば、誰でもすぐに気がつくはずだ。ビルには屋上はなかったけど丸い大きな帽子をかぶっていた。
「近所に図書館とプラネタリウムが一緒にあるなんて。それだけでも、ここに住む価値がある」とJは満足そうだった。その笑顔を見て私も満足だった。
ある日のことだ。暑くも寒くもない日だったから春か秋だと思う。市営住宅の近くの桜に花はなかったから秋かもしれない。確か二人で図書館にいたとき。だから休日だったのだろう。不意に図書館の天井のスピーカーからアナウンスが流れてきた。
「四階のプラネタリウムは午後三時から上映します」
それまで私たちは一度も四階に上がったこともなかったし、もちろんプラネタリウムに入って星空を見たこともなかった。市営のプラネタリウムなんて「どうせ子供だましだろう」くらいにしか思っていなかった私だったが、時間潰しのつもりでJを誘って、二人で入ってみることにした。
Jは恥ずかしそうにしていたが満更でもないようで、ニヤニヤしながら私の後ろを付いて四階に上がった。四階に上がると狭いホールに長机があった。そこにレジが置いてあった。傍らには事務員さんと呼ぶしかないような年齢不詳の女の人が立っていた。二人で数百円程度の入館料を支払うと、チケット代わりのレシートをもらって、映画館のような大きな防音の赤い扉を開けた。
そこは確かにプラネタリウム以外の何物でもなかった。小さい円形空間の真ん中には(遠くから見る限りメカニカルな黒蟻を思わせるような)小さい投影機があった。小さい天井は、古ぼけた病院の日に焼けたカーテンのように黄ばんだ、半球のスクリーンだった。Jに言わせれば、それは「少し大きめの遊牧民のテント」であり、私たちはその中にいる草原の民だった。
プラネタリウムには投影機を中心にして同心円状に何周にも椅子が並べられていた。ざっと見渡して七十脚ほどの半分が埋まっていた。大入りではなかったが、思ったよりも人気があるらしい。
ほとんどは男子や女子の三・四人のグループでガヤガヤとうるさかった。スーパーの買い物帰りらしいお母さんは隣に座る娘さんにヒソヒソと何かを話していた。肘掛け越しに肩を寄せ合う大学生風の若いカップルもいた。スーツ姿の係長(みたいなおじさん)は熱心に眼鏡のレンズを拭いていた。一番離れた席のおじいさんはスポーツ新聞をブツブツ言いながら睨んでいた。残念ながらと言うべきなのだろうが、真面目に星座を見ようという観客は私たちも含めて少なそうだった。
私たちは出入り口に近い空席に座った。その椅子はリクライニングシートで、体感的には百二十度くらいの角度に傾けることはできたが、座面も背もたれも肘掛けも木製だったから、座り心地は座る前からわかっていた。私たちは周りの人たちからどんなふうに見えるのだろうか(ちゃんと夫婦に見えるだろうか)と少し気になったが、思い煩う間もなく、開演のブザーが鳴って館内は暗転した。
Jによれば上映時間は三十分程度だったそうだ。プラネタリウムにつきものの星座解説の音声はテープから流れていたようだ。なぜ「そうだ」「ようだ」の伝聞推量なのか。それは暗転直後、私が熟睡したからである。しかも鼾までかいていた。爆睡だった。鼾については伝聞推量ではない。自分の鼾で私は熟睡から目覚めたからだ。目覚めたときには、すでに館内は明るくなっていて、ほとんどの入館者は消えていた。
よくもまあ、あんな座りにくい椅子で、鼾までかいて熟睡できるものだ。とJは言わなかったが(Jがどう思おうが)我ながらそう思う。
目覚めてすぐに何となく視線を感じたので、そちらを向くと出入口辺りに親子がいた。暗転する前に見かけた親子かもしれない。帰り支度をしながらチラチラとこちらを見ている。娘さんがお母親さんに、何かを囁いているようだ。声は聞こえなかったけれど、きっとこんな会話なのだろう。
「ねえ、お母親さん。お母親さん、さっきの音は何? 誰かのイ・ビ・キ? 何だか、あっちから聞こえたような気がしたけど」「シー。〇〇ちゃん(娘さんの名前)、ダメよ。あっちを向いちゃダメよ」とか何とか。
娘さんはきっとビックリしただろう。プラネタリウムで鼾が聞こえてくるなんて。トラウマにならなければいいけど。若いお母親さんごめんなさいね、と私は言いたい。
そのあとも私たちは何度か駅前のプラネタリウムに出かけた。私は夜の星座を楽しむことよりも眠気を抑えるほうで必死だったが、Jは毎回きちんと最後まで夜空を鑑賞して数百円の元を取っていた。
私たちが市営住宅に住み始めたのは秋だった。年を越してもJの就職先は決まらず、Jは相変わらず職安と近所の図書館をウロウロする毎日だった。
春になって桜咲く。Jは図書館の壁に貼ってあった「公民館スタッフ募集」のポスターを見つけた。図書館のあるビルには公民館もあり、そこで受付や広報を担当するスタッフを募集していた。ポスターは市役所にも公民館にも貼ってあったらしい。
受付や広報。Jは、基本的には人見知りだったし、文章を書く仕事からずいぶん時間的にも精神的にも離れていた。だから私は大丈夫かなと思った。私の心配とは関係なく、Jは書類審査(履歴書と経歴書)を通過して、作文審査(課題は「二十一世紀のコミュニティーとは何か?」)も突破して、最後の面接を無難にこなして、当然のように採用された。
採用後、私はJに「採用、おめでとう」と言った。するとJは「採用される自信はなかったけど、この町と僕はきっと相性がいいんだ。僕はこの町にいると、何だか心が落ち着く」と穏やかな表情を見せた。
そのときはJと町との相性の良さが私にはわからなかった。だからなぜJが採用されたのか私にはよくわからなかった。Jのコミュニティー論が評価されたのかもしれない(作文の詳細をJは恥ずかしがって最後まで教えてくれなかった)。それとも最低時給だから応募者がほとんどいなかったのかもしれない。その公民館は市の関連施設みたいなもので人件費は市民の税金から出ているのだから、最低時給について文句が言える筋合いではないとしても。それとも勤務が週四日程度で時間は午前九時から午後九時まで(二交代制)とか、年末年始以外は休日なし(休日申告と休日勤務は応相談)とか、そういう条件に適応する人が少なかったのかもしれない。
公民館には館長が一人、その下に十人のスタッフがいた。六十歳を過ぎた館長は市役所の「市民生活生き生き課」からの天下りだった。十人の職員は九人が四十代以上の主婦で、ご亭主の扶養控除以上には稼ぎたくない人たちだった。残りの一人が三十代後半の男性、つまりJだ。
Jの話によれば、その公民館にはいくつか部屋があった。それぞれの部屋では、老人会や婦人会とか、習字や算盤や趣味の教室とか、それから寺子屋みたいな塾や学童保育もあったらしい。そういう利用客というかグループに対応するのがスタッフの仕事だった。部屋の空き状況を確認したり、予約を受けたり、部屋の鍵を渡したり、利用後の部屋(襖や障子が破けていないかとか忘れ物がないかとか)をチェックする仕事である。ちなみに清掃は市役所を清掃する業者がついでにやってくれるという。
私は公民館の中まで見たことがないので詳しいことは知らない。緊張した面持ちで不慣れな受付をするJの顔を一回くらい見ておけばよかった。
今ならパソコンで受付業務をするのだろうが、当時はノートに手書きで予約を書き込んでいたらしい。受付カウンターの横にあるホワイトボードに、これもまた手書きで「本日の部屋の予定」を書いていたという。携帯電話もパソコンも普及していないような時代(スマホは姿形もなかったころ)だった。
働き始めてJは事務所の棚の隅に埃だらけのワープロを見つけた。
「館長、これは?」
「市役所から届いた中古のワープロ。ずいぶん前から置いたままで。動くとは思うけど、これまでの館長もスタッフも誰も使わない、いや使えないから。そこに置いたまま」
「それなら私が使ってもいいですか?」
「使える? そう、使えるの。使えるなら助かるよ。『公民館だより』とか作れる?」
「やってみます。その前に動くかどうか、確認させてください」
ワープロを見たところ、Jも過去(コピーライター時代)に使ったことがあるメーカーのワープロだった。それは五年程前の旧型だったが問題なく動いた。ただインクリボンが劣化していた。Jは「予備も含めて旧型の機種でも使える共通の新しいインクリボンを購入してもらえませんか」と館長にリクエストした。館長は快諾してくれた。
Jがワープロを発見する前、スタッフがワープロの存在を知らなかったころも『公民館だより』は毎月発行されていた。内容は市役所からファックスで届く地域情報や『市役所だより』の記事を転載したものだった。だから『公民館だより』は、どこから見ても読んでも大したことはなかった。スタッフが手書きして、事務所のコピー機で両面コピーして、カウンターの隅に積んで置かれた。ホチキス止めされた五十部程度の当月号の『公民館だより』の大半は、利用者の手に取られることもなく、翌月には捨てられた。代わりに新しい月の新しい号が先月号と同じ場所に置かれる。それが毎月繰り返されていた。
Jによるワープロの発見は、文字を書くのが苦手で長い文章を書くのも面倒臭いと思っていたスタッフたちを喜ばせた。それを使いこなせるのがJ一人だったことも。ワープロができない人は触る必要がないから。私がスタッフでも、そう思ったはずだ。
私は個人的には『公民館だより』が手書きでもいいと思うし、そのほうが、ある種の味もあると思う。手書きとかワープロとかよりも、読まれないどころか存在すら知られていない『公民館だより』そのものが、そもそも問題なのだ。Jがワープロを使って『公民館だより』を作ったところで、結果は現状と大差なかっただろう。せいぜい見た目がきれいになる程度だ。きれいになって読みやすくなった分だけ、中身の無さが際立つかもしれない。手に取るほどの、手に取りたいと思うほどの内容ではないからだ。
私が感じた「そもそも」はJには全部わかっていただろう。わかったうえで最初は大人しくワープロ操作に専念して様子を伺っていたのだ。戦略というよりも本能かもしれない。
その公民館は市役所とつながっているわけだから、館長もスタッフも目立つような行動はできないし許されてもいない。ましてや単なるパートのスタッフに、そんなこと(たとえば『公民館だより』の充実)は誰も求めていない。古いワープロの埃を払い、器用に操作する程度で十分なのだ。だからJは(何度やっても慣れないし、いつまでも緊張してしまう)受付業務よりも末端広報作業としてのワープロのキーを叩くことに集中した。それはほかのスタッフからも重宝がられた。ワープロはできないが話し好きの彼女たちは、Jの苦手な受付業務を苦も無くこなしていたという。ある意味、ウインウインの関係だった。
そのうちに、なぜだかワープロで作られた『公民館だより』を利用者が持ち帰るようになってきた。すると内容についても、利用者からいわゆる「ご意見・ご要望」が寄せられるようになってきた。それは簡単にいえば苦情で、大半が「つまらない」「おもしろくない」というものだった。ワープロで読みやすくなって、初めて読まれたようなものだから、内容が注目されるようになったのだろう。それもJの思惑通りだったのかもしれない。
受付のスタッフたちが集めた利用者からの「つまらない」「おもしろくない」と言う声を、スタッフ同士の世間話のついでに、わざと館長にも聞こえるように話すことが多くなってきた。しばらくすると館長がスタッフのミーティングのときに、こんな発言をした。
「利用者の声は無視できないから、おもしろい何か、『公民館だより』をおもしろくするアイデア、ありませんか?」
スタッフは顔を見合わせるだけで、誰も発言しない。ついにJの出番がきた。
「利用者のサークル活動とか、教室とかを紹介するページを作ったらどうでしょうか?」とJは提案した。
「いいわね」「それなら、ますます読まれるわね」「でも誰が作るの?」とか言うスタッフに交じって「ページが増えるのは困るよ、予算がないから」と言う館長。
ミーティングが終わるころには新しいことがいろいろ決まった。最終的には、市役所からの情報を削って、ページを増やさずに作ることになった。もちろん作るのはJだ。利用者に承諾を得て、サークルや教室を見学させてもらって記事を書く。J以外の誰の負担にもならずに、追加の予算もゼロで、みんなが納得した。これ以後、Jは受付業務を免除され、広報(新しい『公民館だより』)専任となった。
公民館のスタッフの契約期間は基本的には一年だった。特に問題がなければ自動的に延長された。ただし上限は五年だった。その規定だって、一旦辞めてから、もう一度応募して採用されるという道もなくはなかった。Jが、もしそれを望めば、それまでの働きぶりから、ずっとスタッフでいることもできたはずだった。
それは勤め始めて四年目だった。Jは、そろそろ四十歳になろうとしていた。
ある日、Jと同世代の市役所の職員が「Jさん、ここのスタッフを辞めて、新しい仕事をしてみませんか?」と話しかけてきた。この職員は、市役所と公民館の間で連絡係のような役割をしている人で、ときどき小説や映画の話をしたりして、Jと気が合うようだった。Jは一般受けするものよりも漱石やフィンランド映画が好きだったから、二人の好みが重なるとは思えなかった。けれどJは人の話を聴くのが上手だったから、少なくとも嫌われることはなかったのだろう。だから一般の求人募集が始まるよりも前に「Jさん、新しい仕事をしてみませんか?」と情報をくれたのだ。
「その仕事なら、今の倍の収入が期待できます。仕事も、今、公民館でJさんがしている仕事とか、これまでやってきたライターの仕事の経験が生かせると思います」
Jがその話を私に相談したとき、私は悪くない話だと思った。収入のこともそうだけれど、Jの能力と『公民館だより』が釣り合っているとは私には思えなかったし、能力に見合った仕事をして、仕事に見合った収入を得るべきだ(Jにはそれができる)と私は思った。当然ながら、その求人に応募して採用されたら、今の仕事は辞めなければならない。新しい職場で新しい人間関係を築かなければならない。今の優しい顔馴染みのスタッフたちと別れなければならない。迷うのも無理はなかったが、Jには迷っている時間はあまり残されていなかった。
「ただし応募資格は四十歳以下です。だからJさんには最初で最後のチャンスです」
その仕事は公務員扱いで、公務員採用のような学力試験や面接をパスしなければならない。試験は八月、面接は十月、健康診断は十一月、合格発表は十二月、合格したら翌年の四月から新しい職場で働くことになる。主な仕事は地域振興(町おこし、村おこし、商店街の活性化など)だという。
能力に見合った仕事をして仕事に見合った収入を得るべきだと私は思っていたが、Jが私と同じように思っていたのかはわからない。私は心のどこかで生活費のことも考えていた。だからJが公務員のような仕事をするようになれば、少しは余裕ができると私は思った。でもJが私と同じように思っていたのかどうか、それもわからない。確認できない。
Jが新しい仕事に採用されることは、金銭的に少し余裕ができる以上の意味を持つだろうと私は思った。それは、この結婚を、夫であるJを、母親に認めてもらえるきっかけになると、そのときの私には思えた。
そういう私の気持ちがJに伝わったのかもしれない(私は言葉にして「もっと稼いだら」とは一言も言ってはいないけど)。迷った末にJは公務員を目指して勉強を始めた。わざわざ大型書店で公務員試験向けの参考書や問題集を買い集め、文字通りボロボロになるまで勉強を続け、採用試験を受けた。試験の次の日、台風が通過したことを覚えている。それから面接と健康診断を受けた。秋になるとJは一つ歳を重ねた。
それからしばらくして合格通知が届いた。懐かしい友人から届くクリスマスカードのように私たちを幸福にしてくれた。私たちは合格通知を何度も何度も読み返した。「やっと君に恩返しができた気がする。君が市営住宅を当ててくれたことへの恩返し」と言ってJは肩の荷を下ろした。Jは幸福感に包まれたまま、公民館スタッフの仕事を辞めた。
年末恒例の公民館スタッフの忘年会が、その年はJの送別会になった。館長もほかのスタッフも残念がってくれた。Jの今後の活躍をみんなが期待してくれた。惜しまれながら辞めていくJに寄せ書きと花束が贈られた。寄せ書きの色紙の中心には「今まで、どうもありがとう。心身ともに健やかに、これからも頑張って!」と書かれていた。
新年は穏やかに始まった。私とJの関心は、春、四月からどこで働くのだろうということだった。面接のときに勤務地の希望を聞かれたJは「通えるならどこでも」と答えたという。Jはまた(一時的に)無職になったので、主夫として掃除機をかけたり皿を洗ったり、ときどき家事をした。やることがない日には、図書館で借りてきた小説を読んだり、近所の公園まで野良猫に会いに行ったりした。
その日のことはよく覚えている。その日は桃の節句の翌日だった。私が帰宅ラッシュの電車を降りて駅から出ると、何とも言えない顔をしたJが立っていた。一番近い表現を探したら、それはやはりボンヤリであり、そこに小さじで困惑を加えた顔。
「働く場所が決まったんだけど」と家路を歩きながらJが話し始めた。
夕方、電話があったそうだ。Jは私からの電話だと思った。たとえば残業で遅くなるとか、そういう電話だろうと。受話器を取ると知らないおじさんの声だった。相手はJが在宅かどうかを尋ねたので、Jが本人だと告げると、相手は早口で「四月からこちらで働いてもらうことに決まりましたので、その意思を確認するためにお電話を差し上げました」と言う。Jは念のため相手の言う「こちら」の詳しい場所を尋ねた。
「それが、キ***なんだよ」とJは言った。
その地名には、うっすらと馴染みがあったが、私は頭の中で位置関係がうまくつかめなかった。Jも同じだったようで、その電話が終わると地図帳で確認した。すると「こちら」とは山間部の小さな町「キ***」だった。
「どう考えても通えない」とJは言った。
まずJは分厚い鉄道の時刻表で確認した。特急と在来線を乗り継いでも片道三時間。次に道路地図で確認した。仮にJに車があって運転できても高速道路で片道三時間弱。どう考えても通勤は無理だった。
電話の相手は「通勤は無理でしょうから、引っ越すことになるはずです。急がせて誠に申し訳ありませんが、とりあえず一度こちらに来ていただきたいと思っています。それがいつごろになりそうか、来週中には知らせていただけると助かります。こちらの電話番号は…」と告げたあと、一呼吸置いて、改めてゆっくり小さな声で言った。
「もちろんJさんには辞退する自由があります。しかし残念ながら別の赴任先はありません。辞退の際は合格が取り消されます」
そう私に話すJの顔には「辞退」の文字がハッキリと書いてあった。
【だから私はJに向かって「辞退すればいいよ」と言ってあげることができた。そうすればJはきっと喜んで辞退したはずだ。でも私には、あのとき、そう言ってあげることが、どうしてもできなかった。「辞退」の一言が出てこなかった。心のどこかで、Jなら大丈夫だ、という気持ちがあった。確信というよりも希望として。正直に言えば私は一人で働くことに疲れていた。そのことを私は認めなければならない。】
私は「辞退すればいいよ」の代わりに、こう言った。合格の余韻に包まれているかのように、ことさら明るくJの顔を見ずに。
「それじゃあ、単身赴任ということね。私は母を置いていけないし、どう考えても、母をキ***には連れて行けないから。大丈夫だよ。何とかなるから」
その言葉をJがどんな顔をして聞いていたのか私には一生わからない。永遠のような一瞬が過ぎて、私の耳にJの声だけが聞こえた。「うん。そうだね」。何年経った今も私の耳に響いている。
翌日、Jは「キ***役場」の課長(あの電話のおじさん)に連絡して「辞退しません。一身上の都合で、私独り、単身で赴任します」と伝えた。すると相手は「わかりました。ともに働く仲間として歓迎します。こちらには賃貸アパートも独身者用官舎もありませんが、丁度良い空き家があるので、その所有者と交渉して借家として使わせてもらえるようにしておきます」と言ってくれた。それを聞いてJも私も少しほっとした。これでやっと住まいと仕事が決まった。課長も悪い人ではなさそうだ。とりあえず次の週末に、その借家を見に二人でキ***に行くことにした。
私たちは旅行なんて一度もしたことがなかった。移動中や目的地での人混みに耐えられそうになかったからだ。特にJは市営住宅に根を生やしているような人だったから外泊なんてあり得なかった。そんな私たちが必要に迫られて、特急に乗り、在来線に乗り換えてキ***に向かった。
旅行シーズンでも観光地でもなく、そのうえ平日だったから電車は空いていた。最初、車窓からの景色を見ながら、私たちはJの単身赴任後の二重生活について話していた。
しかし話していても、いまひとつ現実感というか実感が伴わないから、話の内容は具体性がなくて盛り上がりにも欠けた。覚悟を決めたようなJではあるが、そもそも不本意であることは暗い表情を見ればわかる。どんどん現実を突き詰めれば悲壮になり幸福とはかけ離れてしまう。私はといえば、自己嫌悪と罪悪感を自覚しているうえに「大丈夫だから」以外の言葉を知らない。
霧のような沈黙に支配されそうな会話を何とか引き延ばしていたが、引っ越し費用をお互いの親に借りなければならない、という結論めいたことを言ってしまうと、ついに会話が消えた。重い沈黙ではないけど、その沈黙をJの不安と諦観が埋めた。
途中から私は電車に揺られたせいで、不謹慎にも居眠りをした。そして何度か目覚めた。見るともなく見るとJは文庫本を読んでいた。きっとシャーロック・ホームズだ。Jは精神安定剤のように、ときおりホームズを読む。私はJにかける新しい言葉を持たなかった。
在来線に乗り換え山間を抜けて時計が午後になるころ、私たちはキ***の駅に着いた。市営住宅からの圧倒的な距離を感じた。ただ電車に乗っていただけなのに疲れた。大陸横断とか地球の裏側に到着したような気分だった。
たった一つしかない改札から駅前のロータリーに出ると、空気がうまいかどうかわからないが微かに山の匂いがした。「やっぱり通うのは無理だよね」「そりゃそうよ」などと話していたら、約束通り課長が白い軽自動車で迎えに来た。前夜、電話でJが頼んでいたのだ。軽自動車のドアには黒い文字で役場の名前があった。私たちは、はじめまして、こんにちは、お世話になります、と簡単に挨拶して後部座席に乗った。
「長旅でお疲れのところ申し訳ありませんが、まず役場へ行ってみんなに紹介させてもらって、それから借家にお連れしようと思っております」
私たちは、よろしくお願いします、そろって小さく頭を下げた。思ったよりも丁寧な人で安心した。Jもきっと同じことを思っただろう。
役場にはすぐに着いた。木造平屋の役場は私たちの町にある(Jの好きなあの親密な雰囲気の)図書館に似ていた。それで私はまた一つ安心した。役場から遠くないところに煙突が見えた。私が知っている煙突と言えば銭湯くらいだけれど、それよりも細くて背が高くて煙は見えなかった。
役場には男女合わせて十人の職員がいたが、一見したところ若者と呼べそうな人はいなかった。「こんにちは」「はじめまして」「よろしく」。そんな言葉が飛び交った。Jは微笑しながら悪くない第一印象を残したと思う。私は(彼らにしてはどうしようもないことだとは思うが)彼らの控えめではあるが抑えきれない好奇心に満ちた視線が気になった。その二十個の瞳は「何でこんな山の中まで来たんだろう、この男は」と語っていた。Jがさらし者にされている、という居心地の悪さに私は包まれた。Jを、ここまで連れて来て、さらし者にしたのは、この私だということを彼らは知っているのかもしれない。
役場を出ると私たちは借家を見に行った。林の中にある未舗装の狭い道を歩いた。役場の仕事が始まれば、Jは独りで、この道を歩くのだと思うと私はまた言葉を無くした。だからといって私が泣けばいいというわけでもない。泣くことが許されるのはJだけだ。
二十分くらい歩いたと思う。雑木林の向こうに平屋が見えてきた。課長が指差して「あれが借家です」と言った。呼応するように、どこかで「チチチ」と鳥が鳴いた。知らない鳥だった。知らない鳥の知らない声を聞くと知らない土地にいるという実感に包まれた。私たちは並んで歩いて帰れないほど遠くに来てしまった。
近くで見ると平屋は山小屋のようにも見えた。玄関のドアを開けるとカウベルが鳴った。中に入ると、ワンルームマンションにあるような装備がそろっていた。最近掃除をしたと思われる八畳くらいの空間に、エアコンもあればユニットバスもあれば小さいキッチンまでもあった(もちろん都市ガスではなくてプロパン)。どれも少しずつ古びてはいたけれど使えなくはない。テーブルとかイスとか本棚とか照明とかテレビとか黒電話とか、生活に必要な家具や家電や食器まであった。北側の大きな窓を開けると足元に縁側があった(二槽式の洗濯機は縁側の隅にあった)。私たち三人は縁側に並んで立って外を見た。近景には芝生のような雑草が茂っていた。遠景にはキ***という土地一帯を取り囲む山々が見えた。中景には四角い石の集団が見えた(たぶん墓場)。
「ハイキングとか登山とか、そういう人たちのために役場が以前に用意した平屋ですが、そのうち誰にも使われなくなりまして、役場の官舎にするという名目で残してきましたが、役場の連中は地元民で自宅から通えるために、どうすべきかと悩んでおりましたところ、Jさんが赴任するということになりまして、良かったと思っております。電気もガスも水道も電話も、すべて使えるようにしておきました」
私たち三人には墓場が見えたけれど、あらかじめ約束されたことのように、それについては誰も何も言わなかった。それを理由に借家を断ることもできたけれど、ほかに家もアパートもないのだから、ここにJが住むことは最初から決められていたことだった。
借家を見てしまうとJと私には帰るしかなかった。課長が役場に電話をかけて軽自動車を呼んだ。駅まで戻って、さようならの挨拶や初出勤のあれこれを課長と話しているうちに、電車が来たので、それに乗って私たちは私たちの町に帰った。
私たちの乗った電車は、実はそれを逃すと(特急との乗り継ぎの関係で)その日中に家に帰れなくなるという、切羽詰まった電車だったことが乗ってからわかった。きっと役場の課長には、そんなことはわかりきっていたことなのだろう。帰りの車中では、さすがに疲れていたので二人とも黙っていた。私は居眠りをし、Jはホームズの続きを読んだ。
私たちが私たちの町の私たちの市営住宅にたどり着くと、まだギリギリ日付はそのままだった。Jは疲れていた。私も疲れていた。二人とも帰ってこられて安堵した。いろいろ話したいこともあったけれど、すぐに寝てしまった。寝たのは私だけでJは一睡もできなかったかもしれない。
次の週の月曜日に私とJは、またキ***に行った。Jの役場での仕事のために。私たちは昼過ぎに着いた。Jの荷物はほとんどなかった。ちょうど市営住宅に引っ越したときくらいだった。今度の引っ越しのほうが借家に家財道具があるから、小さなバッグ一個で済んでしまった。Jは移動のたびに軽くなっていくようだ。
役場の仕事は明日ということで、二人は夕方までボンヤリと借家の中で過ごした。
「役場は週休二日だから毎週金曜日の夕方に電車に乗るよ」「うん」「給料の半分は送るから」「大丈夫よ」「ほとんど使わないから三分の二くらい送ってもいいよ」「無理しないで」「無理なんかしないさ」「じゃ貯金しておく」「うん」「いつか戻れると思う?」「わからないな」「なるべく私もたくさんこっちに来るから」「無理しないでいいからね」「うん」
最後まで私は「辞退すればよかった?」とJに問えなかった。答えを聞くのが怖かった。キ***の春の日は静かに過ぎていった。私にはJにかけてあげるべき本当の言葉を持たなかった。私にはいつも言葉がない。夕方になり、私だけが私たちの町に帰った。
Jが単身赴任するようになると、私の母親は頻繁に市営住宅に来るようになった。心配してくれるのはわかるが複雑な気持ちだった。Jだけでなく、私も母も、それぞれの生活が少しずつ変化していた。
Jは約束通り、週末には帰ってきた。毎週毎週、金曜日の夜、市営住宅に帰って来て、日曜日の午後にキ***に戻っていった。この町にいるとき、天気が良ければ、町中を散歩した。近くの公園に野良猫がいないかと見に行った。野良猫を見かけるとJは笑顔になった。私は野良猫に心から感謝した。それから川沿いの桜並木を意味もなく何度も往復した。日曜の午後、Jを見送るとき、一緒に乗って行きたいと思わないことはなかった。
Jは役場の仕事についてほとんど話さなかった。それでも私が何度も聞くものだからJは「話すほどのことがないんだ」とため息をついて、ぽつりぽつりと話した。それらの話を私なりに継ぎはぎしたら、こんな感じになる。
「本当に話すほどのことはないんだよ。地域振興、町おこし、商店街おこし、そういう何とか『おこし』をしようにも、役場も町民もそんなことは特に何も望んでいない。今ある『町内だより』を何とかしようという気もないようだから、出しゃばったこともできない。一応、『町内だより』の担当は僕だけど、余所者扱いされて…」
「意地悪されたり、無視されたりとか?」
「そういうことは全然ないけど。小さな町だから僕の存在は誰でも知っている。変な目で見ているというよりは、可哀想がられているといったほうが近いかもしれない。通勤できないような遠くの町から単身赴任してきて大変だね、という感じ。僕のことを知っているという意味では『住民票』をキ***に移していないことも町民なら誰でも知っている」
「何で知ってるの? 個人情報でしょ? 誰かが言い触らしてる? そもそも『住民票』を移すかどうかなんて、個人の勝手で、採用の条件でも何でもなかったと思うけど」
「それはまあ、そうなんだけど。だからつまりキ***の住民ではないから、つまり『住民票』的にも、まあ余所者ということになるわけで」
「それは、まあ、そうだけど」
「余所者扱いされると、たとえば『町内だより』の担当者として町の小学校の先生に何か聞こうと思っても、誰も積極的に話してくれない。何となく当たり障りのないような薄っぺらなコメントになる。相手の立場からすれば、非住民に本音なんか話したってしょうがない、というような感じになる。最初は気のせいかと思ったけれど、肌感覚で気のせいでもないことはわかるから。新しい『町内だより』も、担当が僕に変わってから盛り下がっているというか。週末にはいつもキ***から逃げ帰っているというところも、僕の評価を下げているんだろうなあ」
「でも週末は休みなんだから、どこで何をしようが自由だわ」
「うん、まあね。でも何かと町の行事は週末にあるから。役場の人間も強制じゃないけれどボランティアで参加して、あれこれ手伝ったりとか…」
話の最後にはJの顔は暗くなり、話す声も小さくなった。Jの話の中では、どこにも悪人は存在しない。それは私にもわかる。だからこそ誰かのせいにしてしまうことが私にはできなかった。
毎週末に、この市営住宅に帰宅するだけでも、Jにとっては、どれほど大変だったのか。そのことに私は微塵も気づいていなかった。そして、キ***に戻っての週明けの役場でのJの立場の悪さにも。
それでもJは毎週末に市営住宅に帰った。もちろん「住民票」も移さなかった。それはいつか戻るという決意の表れであり、その意志は私にも町役場の人にも十分に伝わったはずだ。(だからこそ私は自問自答する)「住民票」を移さないJに向かって「町役場を辞めて帰ってきたらいい」と、なぜ私は言ってあげられなかったのだろう。あのときになぜ。
そんな生活が三カ月ほど過ぎた金曜日の昼過ぎ、珍しくJから電話があった。
「…今日、隣町に異動の辞令が出たよ…」
「隣町? 一体どこ? こっちに戻れるとかではなくて、隣町に異動? 何よ、それ。もう十分だから辞めて帰ってきたらいいよ。よく頑張ったから」
そのとき私は思わず「辞めて帰ってきたら」と口走っていた。
「…上手く言えないけど。いつの間にか絡めとられたようで。何となく断れない雰囲気なんだ。何だか何て言うか何もかもが、もう遅い感じなんだ。つまり手遅れというか」
「そんなこと手遅れとか、そんなこと全然ないから。とりあえず今夜こっちに帰ったら、よくよく話そうよ落ち着いて。電話じゃ、よくわからないし。何とかなるから絶対大丈夫」
「……うん……わかった……うん……今夜」
その夜、いつもならJが帰る時間になっても市営住宅の玄関のドアは開かなかった。Jが帰ってきたのは次の金曜日だった。小さな壺に入って、私に抱かれて。それは軽すぎた。
「在来線が谷を渡るとき鉄橋を通過するんですが、そのとき窓を開けて飛び降りたようで。ご存知のように特急に乗り換えてしまうと窓は開きませんからな」と、キ***警察の人が教えてくれた。Jの遺体は役場の近くで焼かれた。あの細くて高い煙突の下で。
J、私は今でもあなたが亡くなったことが信じられない。遺書はどうしたの? 私を責める言葉を書いてくれたら、きっと救われたと思う。赦されたと思う。
ごめんね、J。それでも私の人生は続くの。今では、マンションを売った母親と市営住宅で同居している。かつての私の部屋を母親が使っていて、かつてのJの部屋を私が使わせてもらっている。
J、あのプラネタリウムは消えてしまったよ。十五年くらい前、駅前の再開発で古いビルが取り壊されて、新しい八階建のビルが建ったときに。それでも新しいビルには図書館はある。以前に比べて倍ほどの大きさになったよ。公民館もあるけど、今は大ホールを併設するコミュニティーセンター(通称コミセン)と呼ばれている。もちろん郵便局も市役所の支所も新しく生まれ変わった。けれど、あの親密な(私の眠りを誘う)プラネタリウムは新しいビルで蘇ることができなかった。
Jなら、きっとこんなことを言う。「無理もないよ。どう考えても昔から赤字だっただろうし、新しいビルに居場所を確保できたとしても採算が取れたかどうか怪しいね」とか何とか。そんなふうに冷静に分析したはず。ときどき冷たい発言をしてJは私を悲しませる。それでもなお、今、Jの声が聴きたい。
J、覚えている? プラネタリウムで見かけた親子を。私は最近よく思い出すの。あのプラネタリウムが(私の鼾ととともに)親子の記憶の中で生き続ければいいのに。
Jの遺骨は骨壺の中にもないし納骨もしてない。この前こっそり真夜中、あの桜並木の根元に、私一人で散骨したの。母親はまだ骨壺の中にあると思っているようだけど。
ときどき私は一人で桜並木沿いを散歩する。春でも夏でも秋でも冬でも。たまに野良猫が根元でおしっこをしているのを見かける。きっとあなたは桜の木の下で笑っている。だってJは、私より、この町が好きだったのだから。 (完)
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