小説『虹をつかむ人』第十章   Novel "The Rainbow Grabber" Chapter 10

第十章

 それまで黙って聞いていたムロエさんが私に尋ねた。
「渡辺さん、大丈夫ですか? 私は構いませんが、話の続きは明日にしますか? お疲れのようですが……」
「大丈夫です。もうすぐ私の告白は終わります。ムロエさんさえよければ、全てを語ってしまいたいと思っています。語り終わって、辞表を書こうと思います。辞表の件は、ムロエさんもご存知ですよね? 石川の代わりに私が辞表を書くわけです。薄っぺらな正義感だと笑ってください。でも本当は、それだけじゃないんですけれど。自分でもきちんと説明できないですが。
 正直なところ、全部告白したあともムロエさんの推薦が受けられるとは思っていません。ですが、それとこれとは話が別です。わかりますか、ムロエさん。それとこれとは、別の話なんです。今、新しいコーヒーを淹れます。一息ついたら、話を続けさせてください」

 行き付けの炉端屋での、話しでしたね。

 そのうち店は忙しくなり、店主も私とゆっくり話をしていられなくなりました。しばらくすると学生のバイトがやって来ました。中には私のことを覚えていてくれて、別れの挨拶をしてくれる若者もいました。
 魚を焼く煙、出汁や醤油の匂い、酔っ払いたちの騒ぐ声。もうすぐ常連ではなくなってしまうのかと思うと、何となく寂しい気持ちになりました。私には経験がありませんが、転校していくときの気分は、そういう感じかもしれませんね。
 私は混み始めた店の中で、私と同じような常連さんを見つけると、こちらから異動の報告とこれまでの感謝を伝えて、軽くビールで乾杯をしました。そういうことを何度も繰り返しているうちに、私は私と同じように、ずっと帰らない一人客の存在に気がつきました。その男の人は、先ほど墓地で見かけた人に似ていました。
 店主の手が空いたタイミングを捕らえて尋ねてみました。
「奥に一人で座っているあの男の人、知ってる人?」
「ああ。あの人。常連さんのようで、そうでないような人だよ。毎年、六月に来るだけの人でね、もう十年くらいになるかな。いつも一人でさ。あまり話さない人だね」
 そのとき私は、何をどうすべきかということについて、具体的に何一つ考えていませんでした。ただ少しずつ何かが見えてきたような気がしました。
その男の人は、きっと墓参りをしていた人でしょう。毎年、六月、墓参り。その男の人は年齢的には私達の父親くらいの世代でしょうか。一見すると出張中のサラリーマンのようでしたが、すでに引退している人のようにも見えました。人生の出口を見つけようとして、アルコールの奥をじっと覗き込むような人。そんな人ではないかと思いました。もう十年くらいになるそうです。不意に、こんな考えが浮かびました。そんなことはないだろうと思いましたが、ずいぶん会っていない知り合いかもしれません。男の人が席を立って勘定を済ませて出ていきました。
「ちょっと用事を思い出したから、店を出るけど、必ず戻る。そうだな、一時間以内に」
 私は店主にそう告げて、一足先に出ていった男の人を探しました。
 男の人は私の少し前を駅に向かって歩いていました。もちろん自分がつけられているとは思っていませんから、尾行をするのは簡単でした。角を曲がるとき、街灯に照らされた横顔が見えました。あれ。記憶が私の肩を叩きました。ほら。そうだよ。私は子供の頃、この男の人に会ったことがありました。どこで何と声をかけようか、と逡巡しているうちに、私達は駅に着きました。
 男の人は切符を買ってホームに向かいます。仕方なく私も一区間だけ切符を買って、追いかけて、ホームに行きました。男の人はベンチに座っていました。幸運にも隣が空いていたので、知らない顔をして座りました。私と目が合いましたが、私が誰なのかわからないようでした。お互いに、こんなところで、十数年ぶりに会うのですから、相手が誰なのか、わかる方がおかしいのかもしれません。
 どうすべきか、私には、そのときまだ計画はありませんでした。
 男の人はどうやら次の電車に乗るようです。私は突然閃きました。それはまるでMが、いい方法があるわ、と教えてくれたようでした。私はポケットから手帳を取り出し、適当に開いたページに、数行のメッセージを書き殴りました。そして、そのページを切り取り、二つに折り畳み、手の中に隠しました。
 電車がホームに入ってきました。男の人がベンチから立ち上がりました。そのタイミングに合わせて、私は手の中に隠していた紙を、男の人の足元に投げました。
「何か、落としましたよ」
 私の言葉に反応して男の人は足元を見ました。そして紙を見つけて拾い上げました。
 降りる人や乗る人が、立ち止まったままの男の人にぶつかってホームを流れていきます。男の人は不審な顔で拾った紙を見て、私を見て、もう一度紙を見ようとしたとき、電車が出発しました。
 男の人は、今、自分の目の前を走り去っていった電車の最後尾を、恨めしそうに見送ると、迷惑そうに私に尋ねました。
「私が、これを?」
 そう言いながら、今立ち上がったばかりのベンチに、もう一度座り直しました。それから自分が落とした(と言われた、私が投げた)紙を広げて、中のメッセージを読みました。私は男の人がメッセージを読むところを、隣からじっくり観察しました。
 男の人の顔色が変わりました。口が小さく開かれました。それはまるで呼吸困難の魚のようでした。実際に息ができなくなっていたかもしれません。紙を持つ手が震えていました。やっと男の人は私が見ていることに気がつきました。そしてこの紙を自分が落としたわけではないことにも、同時に気がついたはずです。ただ私が誰なのかは最後までわからなかったと思います。
男の人は、私を見て、何か私に言いかけました。一瞬、躊躇して、結局、諦めたようでした。もう一度、紙に書かれた(私が書いた)メッセージを読んで、私に何かを話そうとしました。そのとき丁度、列車通過のアナウンスがホームに響きました。「特急列車が通過いたします」「*******だったんです」「危険ですからホームの中ほどまで下がってお待ちください」
 私には男の人が何を伝えようとしたのか聞き取れませんでした。
「すいません。聞こえませんでした。もう一度、お願いします」
 私の声が男の人に聞こえたのかどうか、それはわかりません。ただ、そこからは時間が妙にゆっくりと過ぎたことを覚えています。
 男の人は私の顔をじっと見ました。それから男の人の顔が歪みます。目や鼻や口や、顔全体が崩れ落ちるかと思うほどでした。最後に、泣き出しそうな、憐れみを誘うような顔で、私を拝みました。なぜ? なぜ私を拝むのでしょうか。目をつぶったままベンチから立ち上がり、ホームの前へと進みました。行儀よく並んでいた人達をかき分けて前へ。前へ。前へ。通過していく特急電車に飛び込みました。
 言葉にできるのはここまでです。
 言葉にすると、飛び込みまでに長い時間が経過しているように聞こえますが、実際には、ほんの一瞬の出来事でした。男の人が飛び込んだ瞬間を、私は死んでも忘れないと思います。その色や音や匂いまで、頭の奥にこびりついています。でも私には言葉でムロエさんに伝える勇気がありません。

 ムロエさんが口を開いた。
「以上が殺人の告白ですか?」
「そうです」
 答えた私の声は他人の声のように響いた。私はまだあの駅のベンチに座っているのだ。今、ムロエさんを前にして語りすぎた私は、うまく今という時間に戻ることができない。
「しかし渡辺さんが実際に手を加えたわけではありませんよね?」
 ムロエさんは一体何を言いたいのだろう。
「でも私が書いたメッセージを読まなければ、男の人は電車に飛び込むことはなかったはずです」
 ムロエさんは私の目を見て黙って頷いた。それは裁判官の判決のような重みがあった。
「もうずいぶん遅いので、これで失礼します。推薦に関しての最終決定は近いうちにお伝えします。コーヒー、ご馳走様でした。おいしかったです。ところで渡辺さん、これから辞表を書かれるのですか?」
「ええ、書くつもりです。たとえ『虹捕獲師』になれなくても、今の会社は辞めますから。私が辞めることで、少なくとも短期間であっても、石川は救われるはずです。と言っても、私の行為に大した意味があるとも思いませんが。でも私は、要するに、何と言うか、そういうタイプの人間なんです。どうしようもありません」


もしあなたが私のnoteを気に入ったら、サポートしていただけると嬉しいです。あなたの評価と応援と期待に応えるために、これからも書き続けます。そしてサポートは、リアルな作家がそうであるように、現実的な生活費として使うつもりでいます。