小説『虹をつかむ人 2020』第七章 Novel "The Rainbow Grabber 2020" Chapter 7

第七章

 私は私だけ会っていない教官に興味を持った。「ちなみに、その神様の名前は何」と二人に尋ねた。
「ハードラー」と山田が答えた。一瞬、外国人なのかと私は思った。別に、日本の虹捕獲師の研修所に外国人がいていけない理由はない。そういうこともあり得るだろう。
「ハードラーってことは、外国人なのか」
「というか、ニックネーム」と鈴木が外国人の訳がないじゃないかと笑う。
「本名じゃなくて」と私は重ねて尋ねた。なぜニックネームなのだろうか。
「よくわからない。本名ではないけれど。本名は知らないんだ。誰も。何だか訳ありらしい」と山田が変な話だよな、と鈴木と顔を合わせた。訳ありのハードラー。車椅子。私は、まさかと思った。暗い思い出に、まさかここで出会うとは。過去からの暗い長い冷たい腕が伸びてきて、私の首根っこを掴む。ハードラーというカタカナから連想されることは一つしかなかった。
 Mの恋人の、陸上部の先輩。首吊り自殺未遂。一命は取り留め、後遺症が残った、らしい。噂では脳だったが、それが車椅子に繋がったとしても、特に不思議ではないだろう。ここにいることは不思議ではあるが。私は確かめるためにハードラーの勤務表を調べた。そして見つけ、本人を捕まえて、尋ねた。残暑が厳しいと言っても、傾く秋の日差しの中で、さりげなく声をかけた。正面から見た顔。誠実そうな目元に面影があったが、ずいぶん時間が経っている。視線の位置が違いすぎる。確証は持てなかった。車椅子の背には確かにHURDLERと書かれていた。
「ハードラー教官。予報官。私を覚えていますか。渡辺です。高校の陸上部だった。教官は同じ部の先輩で、ハードルの選手でした」
「渡辺…。覚えていないな。悪いけど。君は陸上部だったのか。私も? ハードルの選手なのか、私が。でもそれは、とても無理そうだから。人違いだと思うよ」と言って、ハードラーは車椅子のタイヤを優しく撫でた。
「とても似ています。何か覚えていませんか。たとえば**のこととか。どうですか」と、私はあえてMの名前を口にしてみた。反応はなかった。隠しているような様子もなかった。私は質問を変えてみた。
「神のような予報精度はどこから来るのでしょうか。秘訣があれば、後学のために、ぜひ教えてください」
「秘訣など特にないな。ただ、それがわかるとしか言えない。昔から、そうだったから。だから、うまく教えられない。悪いけど」
「昔とは、いつ頃の、昔ですか」
「十代の終わりに事故をしてね。といっても、私は覚えていない。その時、生死を彷徨って、臨死体験のようなこともあって。周りは信じてくれなかったけれど。そのあと脳に障害が残って、記憶の一部が喪失して、運動神経もやられてね。でもずいぶん回復したんだ、これでもね。その過程で、いろいろ新しい能力も身についたようで。さすがにスプーンは曲がらないけどね」
 時が動いた。地球が周り、西日が傾き、影が濃く長くなる。沈黙が空間を満たす。森では時間が少し早い。だから季節も早い。
「私は虹を見つける。どんなに微かな虹でも必ず見つける。それが生まれる前に。でも絶対に私には捕獲できない。私には捕まえられない。だから私は、虹をつかむ人、にはなれないんだ」
 声には影がにじんでいた。その表情は影の中でわからない。私はかけるべき言葉を持たなかった。神には神の、神ゆえの、苦悩はあるのだろう。
「さっきの名前を、もう一度、教えてくれないかな」というリクエストに応えて、私はMの名を、また口にしてみた。口にした音たちが空気を震わせ、私の耳から脳を経て、思い出の扉を叩いた。それはまるで、人知れず朽ち果てていく木が、崩れ落ちていくときの、最期の小さなため息に似ていた。
「悪いけど。思い出せないみたいだ。素敵な名前だけれど。その女の子は、今はどこで、何をしているのかな」
「私も、ずいぶん昔に別れたきりで、よくわからないんです」

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