小説『虹をつかむ人 2020』第五章 Novel "The Rainbow Grabber 2020" Chapter 5

第五章

 研究所から郵送された『虹捕獲師初級研修カリキュラム』には研修所への地図も同封されていた。研修は三月からだが、研修所の寮には二月中旬に入る必要があるとのことだった。そしてそのまま半年間は研修所での生活になる、ということが書かれていた。身の回りのものは特に持参するほどのことはない(すべて支給される)と書かれていたので、簡単な着替えと歯ブラシと髭剃り、それから文庫本(シャーロック・ホームズ)を鞄に詰めた。あとは冷蔵庫を整理して、捨てるものは捨てた。マンションの管理人には長い出張に行くことを伝えた。
 列車を乗り継ぎながら二つほど山を越え、山の中の研修所に着いた。何の変哲もない、四角い白い建物。白い塀と白い門。門には「公益財団法人虹捕獲研究所」のブロンズのプレートが埋め込まれていた。古いサナトリウムや変電所とか、電波の中継基地局のようにも見えた。
 列車に乗っているとき、私は猫のことを考えた。いつか猫を飼いたいと思って、ずっと飼わずに生きてきた。結果的に飼えなかったのは、こうなってみれば正解だったかもしれない。こんなことになると猫は誰かに預けなければならないが、頼りになりそうな友人は近くにいない。もしも猫が隣にいたら、その一点のために、この道を辞めたかもしれない。
 初級研修のイメージは、自衛官や警察官ならある種の訓練学校かもしれない。われわれの待遇は公務員のようなもの(研修中も給料は支給される)だから、あながちズレているとも言えない。ただし、捕獲対象が虹だということと、武器を持たないところは違う。私にはサラリーマン時代に泊りがけの研修にすら参加したことがなかったので、あえてイメージすれば合宿タイプの自動車教習所のようなものになる。もちろん難しさは各段に違う。
 二月中頃、私は寮に入った。寮は四人部屋だったが、私が最初に入った。初老の寮長の話によれば、四人部屋だが三人で生活する。三人は常にチームとして行動する。教室でも屋外でも。小太りで白髪の寮長の風貌は、私に大学時代のゼミの教授を思い出させた。穏やかな人で漱石と鷗外を常に比較していた。残りの二人は二月下旬に入寮してきた。鈴木と山田といった。私も含めて三人ともありきたりな名前だ。そして似たような世代に思えた。だから、同部屋になったのかもしれない。われわれは簡単な挨拶を交わしただけで特に深い会話はなかった。まだ半年あるのだから焦ることはないだろう。
 三月から、まず座学が始まった。教官の一人は「座学のポイントは虹の場所の特定に尽きる」と言った。もちろん学ぶことは多岐にわたる。法律や天文や気象や地形など、専門の教官から教わることは多い。他にも、レーザーや衛星を使ったデジタル機器の扱いにも慣れなければならないが、同時にアナログの地図や天気図や方位磁石も読めなければならない。いつも便利な器具が使えるとは限らないからだ。
 五月からは実践もスタートした。教官に付いて、実際の捕獲に立ち会う。未経験な生徒であっても、教官と共に現場で検証し、常に主体的に参加することが求められる。ぼんやり見ていればいい、というものではないのだ。チームが三人であることにも意味がある。虹の両端に一人ずつ。残りの一人はサポートメンバーになる。三人がローテーションで作業をすることで、お互いを評価し合える。
 梅雨明けからは、教官の監視下であるが教官と同じように、天気図や雨雲レーダーや過去のビッグデータから虹を探索して(発生予測に基づく先回りなど)、虹の確保から保管までの一連の流れを実践するためのトレーニングが始まった。ただしバーチャルリアリティーで。教官が制作したシミュレーションが、われわれの装着したゴーグルに投影されて、その仮想現実の中で虹を捕獲することになる。なかなかうまくできているが、若干の違和感はある。たとえば、風がないのだ。空気感が違う、とでもいうべきか。鈴木と山田も同じような感想を述べた。われわれが本物の虹を捕獲するのは、研修終了の直前らしかった。
 週末、寮から自宅に帰ることは原則禁止だったが、個別に申請して許可されれば、自宅だろうがどこだろうが外泊はできた。秘密保持を厳守できるならば、そして月曜の最初の授業に間に合えば、特に問題はなさそうだった。しかし、これはあくまで噂だったが、外泊する寮生は誰かに監視されているとか、秘密を洩らしたら口では言えない大変なことになるとか、まことしやかに囁かれた。われわれ三人は研修が終了するまで一度も外泊することはなかった。噂の真偽がどうであろうと、無用なトラブルは御免だった。それは三人の総意だった。われわれは、まるで小さな宇宙船の乗組員のように半年間暮らした。それはそれほど悪くはなかったと思う。

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