小説『虹をつかむ人』第十一章   Novel "The Rainbow Grabber" Chapter 11

第十一章

 ムロエさんは二つ上の階に帰っていった。何号室なのか、尋ねるのを忘れていた。ムロエさんも私に一つ尋ねていないことがあった。あの紙に私が何を書いたのか、ということだ。私はあの紙に一つの可能性を、疑問符付きで書いた。男の人は何も答えなかったが、その死が答えてくれた。
 Mが妊娠したことで、三人が亡くなった。もう一人のその後を私は知らない。今さらそんなことを言ってみても仕方がないだろうけれど、誰かがどこかで止まることができていれば、そして明日に望みを繋ぐことができていたなら、結末は、もう少し明るい方へ変わっていただろうと思う。きっと彼らの空には、その瞬間、虹が架かっていなかったのだ。

 私はキッチンのテーブルで辞表を書いた。
 書き終えて捺印してしまうと、会社での様々な出来事が急に遠退いていった。そこにあったはずの、ともに働く仲間たちとの、確かな交流が、今では手の届かない幻のように感じられた。
 そして思った。部長とは最後までわかり合えなかった。それは部長のせいだと思っていたが、辞表を書いた今、それは突き詰めてしまえば、自分が原因であることに気がついた。私はこの年になっても気がつくのが遅い。
 部長は虹を美しいと思うのだろうか。たぶん思わないだろうな。これからも、きっと虹のことなど忘れて暮らすはずだ。もしも美しいと思わないのなら、私が伝えなければならなかったのだと思う。その美しさとその効用について、何度でも諦めずに言葉と心を尽くすべきだったのだ。

 朝になった。私は一睡もできなかった。
 まだ街は動きだしていないが、地球の回転を感じるときだ。別れた妻のことを唐突に思い出した。徹夜明けだから、頭のどこかが普通以上に覚醒しているせいかもしれない。
 妻の顔はMに似ていた。付き合っているとき、結婚したとき、そして一緒に暮らしていても、そんなことは一度も思ったことはなかった。でも今思えば、やはりどこか似ていたような気がする。
 別れるとき妻は、今私が座っている椅子に座って、こんなことを話した。
「あなたは何かを隠している。それが何なのか私には想像もできない。浮気とか、借金とか、隠し子とか、そういうレベルではないことは想像できるけれど。あなたはそれを忘れることができないだけでなく、うまく仕舞っておくこともできない。
 私は妻として、本当は、それについて、あなたから聞き出して、ともに戦うとか、ともに守るとか、ともに悩むとか、どうすべきなのかわからないけれど、とにかにそういう共同作業をすべきなのだと思う。でも私にはできない。私には、きっとそういう力が欠けているから。それは私が一番よく知っている。ひょっとしたら、あなたも気がついているかも。
 もしも、あなたがうまく仕舞っておいてくれたら、私達はともに暮らせたかもしれない。でも、あなたには、それができない。そのことを私もあなたも知っている。
 あなたがうまく仕舞えないのは、きっと、その何かを自分の血や骨や心として、自分の中に受け入れていないからだと思う。どうすれば受け入れることができるのか、私は知らない。でもそれは決して時間の問題じゃないと思う。確かに時間が経てば深く沈んでいくかもしれない。でも溶けてなくなるわけじゃないわ」
 妻の言葉を思い出して、なぜ自分が受け入れられないのかを考えた。
 最初から私は、復讐する立場にはなかった。なのに、追い込み、罰を与えてしまった。私は、すべきではないことをしてしまった。そのことが私の心と命、それらを超えた魂を不安にさせた。だから、受け入れることができないのだ。
 こんな考え方は間違っているのかもしれない。いや、違う。間違っていたのは、最初の一歩だった。私がまだ子供だった頃、初めてハイジャンプを教えてくれた大人がこんなことを言った(それが誰だったのか忘れた。人は名前を忘れられても、その言葉は残る)。
「助走の最初の正しい一歩が、高くて美しいジャンプに繋がっていく。間違ったまま助走をしても、納得できるジャンプには決してならない。もしも間違った一歩に気づいたら、すぐに助走を止める勇気を持ちなさい」
 ここまで辿り着いて、私は思った。
 虹が人を元気にさせて、その元気が虹を発生させるのなら、私の魂の不安も虹を捕獲する行為を通して、解消されていくのかもしれない。即効性はないかもしれないが、魂を安定させるような効果はあるかもしれない。心の病を治すための作業療法のような効果が期待できるかもしれない。私はそんな微かな希望を抱いた。誰かのために働いているという実感が、私を変えてくれると信じたかった。
 ムロエさんは私の告白を全て聞いた。
 それでも私を推薦してくれるのか。どうだろう。わからない。推薦されて三級になれたとして、虹を捕まえることが、私にできるのかどうか。それすら今の時点ではわからない。私はすでにハイジャンパーではない。色々なものがこびりついた、ただの跳べない重たい人間だ。そんな人間が、どれだけジャンプできるのだろう。体を鍛えたり、心を磨いたり、ある種のコツをつかんだら、私にもできるのだろうか。果たして、私の手は虹に届くのだろうか。虹をつかむことができるのだろうか。

 きっと、もうすぐ、固定電話のベルが鳴る。あの日の朝と同じように。私にはそのことがわかる。今度こそ、受話器を取り上げて、誠実に話し始めなければならない。正しい一歩のために。(完)

          【noteの読者のための後書き】
 まず謝意を。読者の皆様、読了いただき、ありがとうございました。もしよろしければ、感想のコメントをいただけると幸いです。

 さてと…。この『虹をつかむ人』は6年前の無職の夏に書きました。書き上げて、ある新人賞に送りましたが落選しました。ですから、この作品の読者は、新人賞の選者と、書いた私以外に、この世の中には誰一人いません。今回、noteに掲載することで『虹をつかむ人』が、新しい読者に出会えたことは望外の喜びです。前書きで「あえて追加訂正はしていません」と書きましたが、いくつかわかりにくい箇所を見つけたため手を入れました。謝罪します。今回、私も改めて全十一章を読んでみました。確かに落選するだけの理由はあると思います。と思いながらも、まだ見ぬ編集者と二人三脚で『虹をつかむ人』を、より良い作品に仕上げたいという気もします。

 末尾になりましたが、ソングライター佐野元春さんの同名の曲『虹をつかむ人』にインスパイアされたことを明記して、佐野さんへのお礼に代えさせていただきます。ありがとうございました。

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