祖父が亡くなった話
本記事には人が亡くなる描写があります。苦手な方はご注意ください。
また、これは気持ちの整理がてらに書いたものです。あまりまとまりのない文章が続きますし、いつもと違って特に有益な情報等はございません。ご了承ください。
最初の異変は去年の3月でした。
大酒飲みだった祖父は元々動脈硬化やら何やら色々わずらっていたそうですが、去年の春に突然倒れたと連絡が来ました。程なくしてしばらく入院することが決まりました。
ちょうど大学が春休みで実家に帰省していたタイミングだったので、いとこ達とお見舞いに行きました。少しだけ喋りました。何とも嬉しそうでした。
今思えばこれが私にとって最後の祖父でした。
私はその後も長期休みに何度か実家に帰省しましたが、予定が合わずずっと祖父には会えずじまいでした。
先週の木曜日に突然母から電話がかかってきました。
私と両親は特に不仲という訳でもないのですが、お互いかなりドライな関係なので、連絡はたまにLINEを寄越すぐらいでした。そのため、そんな母から電話がかかってくるということは只事じゃないなという気がしていました。
私「もしもし?」
母「今電話大丈夫?」
私「うん」
母「じいちゃん亡くなったわ」
私「……え?」
私はその日のうちに実家に戻りました。
久しぶりに会った両親から、1年前の春に倒れた日から入院・退院を何度か繰り返していたこと、看護師の母に言わせると「もうそろそろかなと思っていた」ことなどを聞かされました。
当時、母と叔父(母の弟)が祖父の病室にいて、母がほんの少しの間だけ席を外していた間に息を引き取ったという話も聞きました。
お通夜の前に納棺式に立ち会いました。
安らかに眠っている祖父と対面しました。それでも、今から目を覚ましてひょっこり起き上がるんじゃないかと心のどこかで思っていました。
遺影は若かりし頃の祖父の写真でした。遺影の衣装は加工でそれっぽいものに変更することもできるそうですが、あえて職場のジャージのままでした。何だか祖父らしい良い写真でした。
夕方になり、お通夜がはじまりました。
参列者が8人しかいないこぢんまりとした家族葬でした。私の家族と、祖母と、いとこの家族だけ。それまで規模の大きい葬儀にしか参列したことがなかったので、何とも言えない不思議な感じでした。
その後宿泊することも一緒に夜ご飯を食べることもなく解散しました。
今これを読まれている方からすると、お通夜なのに故人を偲ばないなんてどうかしていると思われるかもしれません。
これは我々家族なりの家族の付き合い方なんじゃないか、と私は思います。一言で言うと「ドライ」な関係。全く関心がないわけじゃないけど、変に干渉せず、たまに近況報告を聞くぐらいの関係が、我々家族にとってベストなんだと思います。
だから、祖父とずっといるでもなく、遺族同士で祖父との思い出を語るでもなく、ただそれぞれが心のどこかで「じいちゃん、あの世でも酒めっちゃ飲むんだろうな」ぐらいのことを考えるという夜の過ごし方を、自ずと選んだんじゃないかなと。
とはいえ、50年以上一緒にいたはずの祖母が宿泊を拒否していたと聞いた時は流石に驚いて変な声が出ましたが。
翌朝、葬式が執り行われました。
出棺前に最後に祖父の体に少しだけ触れました。ちゃんと冷たかったのを覚えています。あぁ本当に祖父は旅立ったんだと妙な実感が湧きました。
そして、祖母が、祖父の顔にそっと触れた瞬間に泣き崩れていました。祖母はお通夜の時も軽くジョークを飛ばしていて「あれ?思ったより悲しくなさそう?」とも思いましたが、やはり空元気だったとわかりました。冷静に考えて50年以上ずっと一緒にいた大切な人が亡くなって悲しくない訳がないですよね。
そして祖父は火葬場に運ばれました。
火葬の間は久しぶりに会ういとこ達と色んな話をしました。
同じ年のいとことは、主に大学生活の話をしました。大学でこんなことを勉強しているとか、卒業後はどうするとか、同じ年だからこそできる話をたくさんしました。
2個下のいとことは、主に大学受験の話をしました。現在彼は予備校で浪人生活をしていますが、現役時の共通テストや二次試験、現在の志望校の話をしました。話を聞く限り私達よりも頭が良くしっかりしているのであまり心配はなさそうだなと思いました。
そういえば、いとこ達とはよく祖父母の家に集まって一緒に遊んだなと思い出しました。
当時私もいとこもそれぞれの両親の仕事が月から金に固まっていたので、いとこ達と祖父母の家に集まるのは決まって祝日でした。祖父母の家で一緒に絵を描いたり、かくれんぼしたり、お昼に焼きそばとか素麺とか食べたり、少し遠くの公園に連れて行ってもらったり…挙げたらキリがなくなるぐらい色んなことをしました。
今となってはそれぞれが忙しくなったのでそう頻繁には会わなくなったけれども、久しぶりに会っても気まずくならずに楽しく話せるのは、そういう思い出があってこそなのかもしれないなと思いました。
そうこうしているうちに火葬が終わり、骨だけになった祖父が出てきました。
指先の骨がこんなにもたくさん綺麗に残るのは珍しいと職員の方が驚いていました。喉仏と呼ばれるものもありました。膝の皿もしっかり残っていました。下の歯も残っていて、引っこ抜いたら歯根?根尖?がちゃんと2本ついてきて、なんかすごいなと思いました。
そして、最後に初七日法要を終えて、解散しました。
最後に、祖母が私といとこ達に「勉強頑張りなさいよ、ばあちゃんもこれから一人で頑張るから」と声をかけてきました。
祖母の本音が見えたような気がしました。50年以上一緒だった祖父との別れが悲しいのはもちろん、これから1人で生きていかなければならないことに対して不安だとか恐怖だとか、そういう感情でいっぱいなんだと思います。
ところで、BUMP OF CHICKENの宝石になった日という楽曲の歌詞に、このようなフレーズがあります。
ファンの間では死別をテーマにしているのではないかといわれているこの曲、それを裏付けるものとして特にこのフレーズが挙げられることが多いです。
葬儀を終えて私は新幹線で下宿先に戻りました。これからはまたいつも通り大学の授業、バイト、サークルの日々を送ることになります。多分私の両親や叔父、叔母、いとこ達も同様に、学校だとか仕事だとか、いつもの日常が戻ってきます。
その中で、我々は何回祖父のことを思い返すことができるのでしょうか。
祖父「を知らない」世界が増えていく中で、どれだけ祖父を忘れずにいられるのでしょうか。
祖父の死とその葬儀を通して、家族のあり方だとか、親戚との関係とか、老後の医療とか終活とか…とにかく色々考えさせられたような気がします。
とはいえ全てを語っていてはキリがないと思うので、一先ずここまでにしておきましょう。
長い上に重苦しい記事を最後まで見て下さってありがとうございます。
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