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わたしについて(大学1・2年生編)

自己紹介文大学編(なんせ結構思い出深いので)大学1・2年生2年間の話。(4年間まとめようと思ったら結構すごい量になりかねたのでとりあえず分けてみました)しかし出来る限りさらっと掘り下げます。

恨めしい高校を卒業した翌日、髪の毛を赤毛に染めました。これで晴れて大学生じゃい、という変な解放感。つかの間の夏休みは絵を描いたり本を読んだり、そして某7の付くコンビニに住んでいるのではないかと疑われるくらいアルバイトに明け暮れていました。(当時私の妹も朝番で同じコンビニにアルバイトへ行っていたので朝晩来るお客さんはお客さんにはたいそう心配されました。残念ながら別人ですよ。)同じ時間のシフトで働いていたこともあったのでレジでお客さんに二度見されるのは割と日常茶飯事でした。

春は別れの季節、そんなこんなで働いていた大学生勢が結構辞めてしまい大体週5くらいでアルバイトに明け暮れる日々、社員か。さすがに学校が始まると同時に週3に減らしました。自給低いから働いても働いてもお金たまんないんだもんおかしいなあ。有難いことに学費は親に払っていただき教科書や備品がどうしても買えない時だけは要相談という事でしたが私は遊ぶ金欲しさに必死こいて働いていました、アホか。

入学式は無事終了、同じ高校から別の学科へ進学した友人から同学科のバンギャの友人のOちゃんを紹介されました。とてもいい子、よかったと一息。入学式で気の合いそうな数人と仲良くなり、連絡先を交換、根暗コミュ障はよかったよかったと心の底から胸をなでおろしました。

大学までは電車と地下鉄を乗り継いで1時間半、なんだと。(今思えば正気ではない)しかも当時地下鉄では携帯の電波が通じませんでした、考えられん。しかも重い画材を背負って。(クズなので入学1日目で学科の教科書はすべて与えられたロッカーにぶち込みました)くそしんどいな何だよこの虚無、と履修登録やら健康診断等の必要事項が続く事3日くらい、さてかえって5時からバイトだと最寄り駅についた瞬間、冷や汗と寒気と吐き気でぶっ倒れました、なんじゃこりゃ。這いつくばるように家に帰って熱を測るとなんと39度。なんとなくその日は朝から頭がぼーっとしてて地下鉄で寝過ごしたわ、どうも調子おかしかったもんなと親に引っ張られて近くの内科へ。なんとめでたいことにインフルエンザでした。(イエーイ‼‼)病院を出た辺りから熱と頭痛で意識朦朧、親がコンビニに電話して秒で休めと言われました。店長マジでごめん、わし、1週間休むわ。

そんな感じで入学1週間しないうちに強制家籠り。死んだ。色々と死んだ。絶望的過ぎてしかもなんか熱も4日くらい下がらなかったのでとにかくしんどかったし記憶にございません。多分死んでたんでしょう。

そして1週間強の自宅待機からの大学復帰とバイト復帰、学科授業でインフルという不名誉なあだ名をつけられていました。学校辞めたんかと思った、と数人に言われる辞めるわけねえだろ。始まりかけた授業にヒーコラ言いながらなんとか追いついて頑張っていた所なんかの授業の教授にインフルでも病欠だから、とひどい言葉を吐かれてこいつの授業は出席してやるけど話なんて聞かねえ、とエアボイコットをしたことを覚えています。(教授の名前覚えてないけど)大学なんて楽勝だろ、と思っていた所必修授業やらなんやらの関係で結局毎日片道1時間半かけては大学へ通い、バイトへ行き、ライヴへ行き、コンサートの申し込みに必死になり、などと割と大学生活を満喫していました。そうしてめでたく後期へ、ここで友人のOちゃんと共に教職をやはり履修した方がいいのではないのかと考えさらなるハードモード大学生活に足を踏み入れました。

教職の時間は1日の終わりかあさイチにしかなかったので週2でOちゃんの家に泊まっていました。Oちゃんも私以上にぶっ飛んでいたので2人で結構でかい鍋に作った料理を(ほとんど鍋)食い尽くしたり、スーパーで買ったエディブルフラワーをラーメンにぶち込んだり、トルコ風アイスが食べたいがあまりにバニラアイスに粉砕した納豆をぶち込んで混ぜたりと非常に滅茶苦茶なことを友人の下宿先で繰り広げていました。朝は大体私の目覚めと機嫌がめちゃくちゃ悪かったので彼女には大変迷惑をかけたことかと思います。でもなんかすごく楽しい日々だったな。卒業後彼女は地元に帰ってしまったのですが未だになんじゃかかんじゃか連絡取ったり遊んだりしてます。

当然バイト日数が減るので遊ぶための金を調整するためにコンビニバイトの夜勤に加え何もない日には派遣のバイトをぶち込みました。(書き忘れたけれど夏休みは案の定甲子園で必死こいてビールと風船を売りさばいていました。おかげさまで運動音痴なのに足だけムキムキ。)この時やっていた主な派遣バイトはコンサートの物販か会場案内。ほとんどの会場には行ったことがあったので会場の見取り図を大して見るまでもなくへらへら案内をしながらただでコンサートを聴いていました。ゆずのコンサートではスタッフも全員体操をするのがとても好きでした。とっても楽しかったけど場内案内を振られると黒彩を頭にぶちまけてピアスを全部取ってパンプスを履かないといけなかったのでそこだけが嫌いでした。自給も悪くないし弁当ただで食べれたので暇さえあればコンサートバイトをしてました。そしてその金は全部当時の推しと画材と遊ぶ金に流れた。

丁度そのころ京都への大学へ通っていた妹が通学に音を上げて下宿を始めました。なんてこったさみしい夜が続くぜ!しくしく。しかし当時同じバンドが好きだったので週2ぐらいで会ってました。だから割とさみしくはなかった。

1回生の後半、推しの現場が増えだしたので無駄に授業をサボることを覚えだす。なんせ実習が多かったので中々代理出席は厳しかったもののサボれるもんならサボれるもんはすべてサボり散らかして神戸から大阪やら心斎橋にガンダしていました。ツアーが始まろうもんなら授業どころか学校を休むことなんて当ったり前、学校帰りに夜行バスに乗るもんでキャリーを引っ張りながら学校へ行く始末。(お金に余裕があったらそれこそ三宮のロッカーへキャリーをぶち込んでから学校へ行っていたけれど結構ギリギリで生きていたので金使うくらいなら腕使って荷物担いで学校行くわ、と開き直っていました。そして教授や助手さんに翌日の不在を察されるという悲劇。)ちなみに変に潔癖でお風呂に入らんと死ぬと思っていたので学校のシャワー室、運動部でもないのに滅茶苦茶使ってた。時間つぶしに大学の図書館をフル活用していたので映画にはとてもとても救われました。週1くらいでキューブリックのシャイニングを馬鹿の一つ覚えみたいに観ていました。なんかわかんないんだけどずっと好きでもはや中毒です。

そんなこんなで1回生2回生は特に大きな変化もなくのんべんだらりと大学生らしい日々を過ごしていました。当時滅茶苦茶機械に疎かったので中々iPhoneに手を出せなくて一生ガラケーを握りしめて生きていた。

そして私はこの2年間で大好きだった絵を描くことが恐ろしいと感じるようになるのです。このお話はまた今度。

沢山読んでいただきありがとうございました!

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