学校がアレならどこへいけばいいのか

こんな記事を読んで、学校って「国民」を養成する機関としては、もはや役割を終えたんではないかと思った。

ちょうど最近イヴァン・イリッチの「脱学校の社会」という50年くらい前に書かれた本とホリエモンが学校不要論を説く最近の本を読んだけど、両者とも国家が学校という「工場」によって均質化された「国民」を「製造」することを強く批判するとともに、真の「学び」についてそれぞれ違ったアプローチで考察している。

日本人にはびっくりなニュースかもしれんけど、ちなみにアメリカは日本のような教科書検定というのはないんですよね。州ごとに教科書の「選定」はするし、州や教育委員会の発言が教科書の内容に影響力を持つことはあるようで、それで今回のようなことが起こる。
それでも、日本のように国家が学校で使える教科書を選んで合格したものだけを採用するという制度は(連邦政府にも州にも)ないらしいですよ。その前提をある程度理解した上でこのニュースは読まなければいけない。

まあ仮に学校の教科書に「最初の人間は神様がつくりました」と書いてあったところで信じる子どもはほぼいないだろうし、いろんなことを知りたいと思えば、自分でネットや書籍などから情報を得られるので、そうなるともはや学校教育は一種のファンタジーを眺める場ということになる。ていうか歴史教育なんてもともとファンタジーだし。
そんな大人のファンタジーを眺める場所ごときに、子どもの大切な人生を10年も12年も割くリソースが膨大すぎやしないか?と私は常々思っている。

私自身の考えとしては、学校というのは、社会生活に必要な読み書き算術を覚える以外に、世の中にいかに様々な生き方や生き甲斐や問題があってその問題を解決するために必要な技術と知識をどうやって身に付けるかを学ぶ場所だと思っているが、そういう目的に即して、学校の現場は役割を果たしているのか?という点に関してははなはだ疑問に感じる(それを部活が担っているという人は多いが、それはたくさんの選択肢のひとつであるべき)。

仲間と共に社会を知り、そこにある問題を解決する学びの場として学校のオルタナティブを考えた時にすぐ思い浮かぶものとして「地域」というものがある。
地域はローカルコミュニティにおける身近な問題に現にそれに関わりを持つ当事者たちが取り組む場としてはひじょうに適しているし、そもそも地域はそうあるべきだ。

ただ、そうした小さなコミュニティは性質上どうしても保守的になりやすいので、ユニークなアイデアが採用されにくかったり、イノベーションが起こりにくく、若い人たちが面白みを感じにくいという問題もある。
世界が多様であることに出会い、知る場としては不十分というか不向きなのである。

ホリエモンは、これからの世界は、国家という所属、場所や所有にもとらわれないグローバルな(ノマド的な)人間と、ローカルに閉じていく(マイルドヤンキー的な)人間とに二極化していくといってるが(アメリカはすでにそうですね)、私は欲張りなので、生活の場としてはローカルに閉じつつグローバルな空気をそこに少しずつ取り入れてコミュニティを活性化させたり、逆に外に向かって発信したりする道があると信じて、それを模索している。

もうひとつは、イリッチが50年前に提唱しているような、地域や既存の人間関係にとらわれず、各々が求める学びに応じてそれを教授したり共に学べるようなまったく新しいフレキシブルなネットワークを構築するという試みだ。
おどろくべきことに、彼はインターネットのない50年前に「ウェブ」ということばを使って、21世紀の現在ネット上で起こっているようなオンラインでの知識の共有といったようなプランを(ネットのない時代に)すでに構想していたのだ。

学校での学習に対して非効率を感じたり意義を感じられなかったりする人は多くいたとしても、社会に出るまでの間、学校に通い続ける以外に現実的な選択肢が事実上他にない(あってもほとんどドロップアウトと同義くらいハードルが高い)以上、なかなか現状は変わらないだろう。だから我々がやるべきことは少しずつでも、学校(や部活)以外の「学び(=遊び)」の場を提供し、子ども自身が遊びながら学べる環境を自ら構築するのを邪魔しないことだ。

フリースクールだとかアメリカンスクールというのも選択肢のひとつだろうが、子どもがどれかひとつを選ばないといけないのではなくて、学校にも通いつつ、学校以外の別の活動を無理なく実現できるようなリソースを与えるのが先だと思う。現状は学校が子どもの時間とリソースを奪い過ぎなのだ。そのそもそもの元兇は親が経済活動にリソースを奪われすぎていて、自分の子どもを少しでも学校で管理しておいて欲しいという要求に端を発している。

学校や部活といった親が好むコミュニティに馴染めなかった子どもには、暴走族と引きこもりしか別の選択肢がないんじゃかわいそうすぎるし、それは大人の責任だろう。
この逃げ場のない状況が、いじめや自殺の問題と直結していることは疑いようがない。

教科書がどんなにおかしなことを言い出したとしても、ほかにもっと信頼できる情報ソースがあり、だれでもそこにアクセスできる以上大した脅威ではないし、そういう意味ではもはや学校は事実上無効化されていると言ってもいいかもしれないが、本質的に意味を失った存在にほぼすべての子どもが他になすすべもなく膨大なリソースを奪われ続けるという矛盾は今後どんどん顕在化していくだろう。
学校の権威とプレゼンスが低下して、子どもに本来の学びの自由が戻ってきた時、我々大人は具体的にどんな「場」を提示してあげれるだろう?

そんなことを思った次男2歳の誕生日でした。
まだまだこれからだ。がんばっていこう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?