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【レポート】尹雄大氏講座「記憶と反応」

4年前ステージ4の癌にかかった時に多くの人がお悔やみの言葉をかけてくれた。だがその時に嬉しかった言葉とそうでない言葉があった。断言するが自分に声をかけてくれた人は彼らなりの気の使い方をした筈である。当時はそうは思えなかったが今となってはその出来事と距離感が出来、そう総括できる。ただ多くの人は私の言葉をそのまま受け取ってくれなかった。私の言葉を自分の親戚やかつての入院体験を語るきっかけにしたり、自分の投影や想像力の範疇で私の言葉を「決めつけ」にかかっていた。当時は少なくともそう思えた。それも自分の未熟さの表れだっただろう。

人間が人間に対する「決め付け」は舐めている事からきている。他人を固定化して捉えそれを悪びれもなく発言する人は自分も舐めているし、自分の深さとも向き合っていない。それはきつい言い方だろうか。

ただ言い換えれば人間関係の傷は自分の自作自演の傷でもあった。そう総括できるようになったのはテンセグリティWSや体癖論や韓氏意拳などの出会いも大きかったがとりわけ尹雄大さんの講座が2023年の出会いとしては大きい。

何故過去を参照するのだろうか。

私は昔知り合いで久しぶりに会ったとして馴れ馴れしく舐めてくる人間が未だに一番嫌いである。尹雄大氏の言葉を借りれば「距離と距離感を履き違えている」ということになる。私がステージ4の癌にかかって明日抗がん剤を入れるという未知と恐怖と戦っている時それを茶化したメールを送ってきた元友人がいた。その元友人は元々そういう事をする人であった。当然その場で縁を切らざるを得なかったがその縁を切った反動が自分にも来て苦しむ事となった。彼の言い分は「いつも通り接しないのは変だから」という事であった。

今だから解るが彼は他人をコントロールする事に長けていたが自分と向き合うのが下手な人だったと言える。日々移りゆく自分という自然と受動的に向き合う感性があれば未知と恐怖と向き合っていた昨日とは違う状況である他人である私にかける言葉も変わった筈である。距離と距離感を履き違えずに済んだ、ひとえにその丁寧さが欠けていた。その過去を参照すると言うことは今を生きていない。自然に向かい合えていない、今の自分に向かい合えてないという事。人間は望むと望まないかに関わらず細胞分裂し生まれ変わっている、揺れている、その真実と向かいあうべきだろう。

篠原信さんという方が「弄りという笑い」に対し反駁する意見を述べられていた。

篠原さんのご意見に付け加えるなら弄りというお笑いは役割を固定化させエスカレートする構造があり、それはパワハラやセクハラの構造と似ているという事が言える。自分や他人の深さや対話が欠ける傾向にもなる、思考停止にもなる筈だ。

だが私は日々人間関係を「新たに」と他人に望んでいる割には自分に対しては「過去を参照」し続けている自分にも最近気がついた。それは他人に対しても「未知」を見る事が出来ていないということでもあった。それは大いなる学びだったように思える。

自己肯定感という言葉がある。私には大病は自己肯定感を下げるように思われた。大病において経済面や肉体面など生活面支えて貰うのは求めても良いと思う。話し相手を求めるのも良いだろう。だが精神面や在り方について人に決めて貰う事は出来ない、そこは支えて貰う事は出来ない。それは他人が外から決められるものでは無いのだ。それは自分が受け止めなければいけない厳しい学びなのだ。

最近小関勲先生が誘導して下さった韓氏意拳との出会いがあった。

「韓氏意拳」は型がない、力を使わない、繰り返さない、リズムを取らない、イメージをしないという拳である。これは詰まるところは「過去を参照して動く事を否定している」。この途方も捉え所のなさの中に、「自分の自然を拡張する」という哲学の中に統合した不思議な強さが湧き起こった。それはその瞬間にしか表れなく淡いものだ。小関先生が言われた言葉の一つに「判断できるまで待つ」という事だ。イチローは守備時の捕球動作はどこにどういうスピードで落ちるか判断できるまで「待つ」のだそうだ。

人の話を聞けなくなるのは何故だろうか。

尹さんは「相手の話を聞けなるのはいつなのか?」という質問を投げかけられた。私が思いついたのは「相手の話を聞きながら自分の話したい事を考える時」だった。その時興味は相手ではなく自分に向いていて自分の無意識の防衛反応が働いているからだと思う。それが悪い訳ではない、自分に意識が向いた時その瞬間を丁寧に観察する力があればその状況は改善される。

だがしばしば会社の上司は「俺の話を聞け」と恫喝したりするものである(恥ずかしながら自分も過去にそのような事をした経験はある)。その言葉は呪いの言葉であり、その言葉により相手は自分ではなく相手自身の防衛本能や拘束感に火をつけてしまうのである。

以前の尹雄大さんのグループワークで「加害者」「被害者」「観察者」に分けてその役を演じるというワークをした事がある。そのワークをしていて驚いたことはその人に何か良くも悪くも何かを言ってやろう、という感情になった瞬間に相手の口から出た情報を聞き逃すという紛れもない事実だった。

「ジャッジをしない」「反応しない」というのは言葉で言うのは簡単だが自分の中に損得勘定が出た瞬間、他人に対しての欲望がある場合、自分の中に承認欲求がある場合はそれすらも難しい。その時は自分の思考や行動をスローダウンさせ判断ができるまで「待つ」という感覚を大事にすることが必要になる。

仕事は「スピード」が命だという人は多い。だがそういう事を口に出す人で実は仕事があまりできる人を私は見た事がない。それは色々問題があり他人のスピードや身体や都合や感受性を顧みず自分の価値観や投影の延長上で対処するやり方は結果スピードを生み出す事はないし組織の中に炎症を巻き起こすのだと私は思う。

正しさとは何か

「正しさとは直線的なものだ」と尹さんは仰られた。日本は少なくとも明の時代は整列や気をつけというものは無かった。人間の背骨はS字湾曲があり「胸を撫で下ろし、足の裏を感じる」立ち方が居付きがなく動きにスムースに入れる。

そもそも我々はテキストに落とし込めるような二次元の存在ではない。「正しさ」は所詮テキストに落とし込めるものでしかなく人間の多層性をしばしば無視している。物理学、生理学、外力と内力、免疫力。それらが我々の自然界、組織、人体にもパラレルに働いている。

例えば筋トレをし過ぎたり言葉を操る事のみに終始すると「体性感覚」が衰えてくる。ジムで筋トレをすることは単関節運動を繰り返す事により一方向の動きを強化する。それを繰り返す事により強くなった気がする、だがそれは「条件付け」の強さに過ぎないのだ。

鋼の身体と言われるが自分を「固体化」させようとする動きや意識は皮肉な事に自分を弱体化させる。自分の身体を液体化させたり固体化させたり気体化させるイメージが変化した分だけ応じる動きが得られる。

正しさは原因と結果を直線で結びつけるいわゆる科学の世界で見られる考え方だ。だが人間の身体は神経や筋肉は螺旋で美は螺旋にある。古くから芸術家は直感的にそれを解っていた。私はそれを時間にも拡張して考える事を勧めていきたい。

春夏秋冬、覚醒と睡眠、生と死、自分にとって良き事も悪いこともぐるっと時間的に円を描いている。それを直線的に思ってしまうと生きるのは辛い事になるだろう。ぐるっと円を描いているように見えながら少しずつずれて違うステージへと進んでいく。

共感より共鳴を求めているのではないか。

尹さんはこの講座の最初に自殺しようと北海道まで来て結局自殺をやめた青年の話をされた。その話の中には「共感」はなく「共鳴」があると感じた。「意図を伝えようとしていないのに伝わっている」という事を尹さんは仰られていたのが印象的であった。

他人と自分が共鳴できるのは空間があるからである。それは物理学の話であり距離感があるから惹かれ合うということが生じる。人間関係だけでなく人間の身体そのものがそのように出来ている。骨と骨が引っ付くとヘルニアになるし他者と非自己を区別出来なければ免疫疾患になる。テンセグリティモデルはそれを良く表しているように思える。

筆者の家にあるテンセグリティモデル

対立ではなく対話

こういった直線思考は体癖では「上下体癖」に多いように思われる。東北大震災の時、日本は混乱する事もなく整列し日常を過ごしている人が多かった。これは単純に上下体癖傾向の人が生々しさから逃れ、感じている事から自分を切り離し手際を良く分類していくのに長けたビジネスマンの世界に見えられる。

繰り返すが対話には時間がかかる、「待つ」という感覚が必要だ。

自分本位である事

反応や反射しない練習も大切だが時として「自分本位である練習」も必要だ。尹雄大さんの講座のワークでは上記のように手を軽く抑えられた状態で膝に置いた手を耳に触るというワークをしたのだがこれは今の自分にとってはとても難しいワークだった。
他人は自分に影響は及ぼしているのは事実だが相手と自分に「空間」があるのもまた紛れもない事実なのだ。我々は周りにいる人の存在や言葉でしばしば拘束されているように勘違いし自分の行動を縛ってしまうことがあるのだ。

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