見出し画像

日産自動車野球部復活にベイスターズが寄与


お断り

今回の記事の中には一部の方に不快な印象を与える記述がございますことを予めお断り申し上げます。あくまで1ファンの私見ですので科学的根拠や歴史的史実に裏付けられた記述でないことをお詫びいたします。

神奈川野球界発展に寄与するベイスターズが日産自動車野球部復活の手伝いを!

ベイスターズといえば神奈川球界から日本の野球を発展させるという取り組みを続けています。

2009年に日産自動車野球部は1959年からの50年の歴史を閉じました。神奈川地区の社会人野球チームとして、都市対抗野球出場29回、優勝2回、準優勝3回。そして社会人野球日本選手権大会:出場16回、優勝1回(2003年)、準優勝2回(1993年、1994年)という強豪です。特に1998年に都市対抗野球で日産自動車が優勝した年はNPBでは横浜ベイスターズが日本一、高校野球では横浜高校が甲子園優勝と神奈川の野球が輝いていた年でした。

プロアマ交流の先駆者・日産自動車とベイスターズ

2001年8月15日、当時の横浜ベイスターズの二軍組織である湘南シーレックスとプロアマ交流試合が行なわれました。これは、柳川事件以後初めてのプロアマ交流試合です。日産自動車追浜工場に隣接する横須賀スタジアムを湘南シーレックスが本拠地としていることから、以前より親交があったため実現しました。また、毎年8月半ばにはシーレックスとの交流戦が行われていました。

関根事件で拗れた日産自動車と大洋ホエールズ

同じ神奈川を本拠地とすることで日産自動車野球部廃部まで親密な関係にあったベイスターズですが、1982年のドラフトで日産自動車の関根浩史投手を大洋が2位指名したことで関係が拗れました。日産自動車は高卒3年目だった関根投手のドラフトでの指名を各球団に断りを入れていました。しかし本人と大洋のスカウトが水面下で接触していて、強硬指名そして大洋への入団という流れができました。これにより日産自動車と大洋ホエールズの関係が一時悪化したと言われます。その後、2005年の三橋投手指名まで23年間ベイスターズから日産自動車選手の指名がなかったことから、一部のファンには出入り禁止になった等の噂が出たほどでした。現実問題は強硬指名後、大洋スカウトが日産自動車へ足を運ばなくなったことが要因だったようです。

日産自動車からベイスターズ球団社長とGMを迎えた時期も

2006年ベイスターズは1995年から1999年までに日産自動車硬式野球部の部長をしていた佐々木邦昭さんを球団社長に迎えます。また日本代表の監督などを務め、法大教授だった山中正竹氏に代わるGMとして1987 - 1999まで日産自動車野球部の監督を務めていた村上忠則氏を2006年10月に迎え入れます。所謂、暗黒期と言われるベイスターズの時代のふろんとを務めていました。この時期はみなとみらい地区に横浜スタジアムに代わるドーム建設のプランなどが出てきており、みなとみらいに本社を移した日産自動車がTBSが親会社で低迷していたベイスターズを買収するのでは?とも言われました。しかし当時の日産自動車のトップだったカルロス・ゴーン氏はベイスターズ買収どころか、2009年2月9日、経済・金融危機の影響のため、卓球部や陸上部、九州の硬式野球部共に年内をもって休部することが発表しました。

2025年の日産自動車野球部復活にはベイスターズも手を貸すべき

2024年で日産自動車野球部が廃部になって15年です。こうなってくると歴史のある野球部でも人材集めが大変になってきます。監督、コーチなどのスタッフには、日産自動車野球部OBでベイスターズ球団スタッフの三橋直樹や高崎健太郎をはじめ、現在の一、二軍の首脳陣からも派遣してチーム作りの
お手伝いをすべきでしょう。スカウト活動もしていなかったわけですから、そういった人材も日産自動車に貸し出しすべきだと思います。神奈川の大学チームや社会人チーム、神奈川FDとも連携して、かつての強い日産自動車を復活させるお手伝いをベイスターズがして、最終的に日産自動車から素晴らしい選手がベイスターズに入団する機会があれば最高だと思います。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?