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異性というコンテクスト

コンテンポラリーダンスや現代舞踊と呼ばれる分野においてはエロチシズムの否定を作法の一つとしてきたし、異性の裸体を観たときに得る感情や異性の肉体へ接触したときに感じる感情を否定してきた。否定することで純粋な芸術であろうとしたと言ってもいい。

踊りという法律の中であくまでも裸体は部品であるし、身体接触はあくまで比喩に過ぎない。

そういう物語がある。

少なくともある種の作品においては。

それってどうなのかなぁ、と最近は思う。舞台上の異性の裸体を観たときには同性の裸体を観たときとは別の感情が想起されるし、異性との身体接触のある踊りもまた同様にして特有の心的状態を揺すり起こす。コンタクトインプロビゼーションは放って置くと男女ペアになりがちなのは体重差だけでは説明できない。ペアダンスと呼ばれるものがほぼ男女ペアであることを全てプラグマティックな理由から綺麗に完全に説明出来るわけもない。

感情は刺激を無視しない。本能とか欲求とかそういうチンケな話をしたいのではない。大きな物語から自由な自立性などというものはありうるだろうか、と提示したいだけだ。舞台はいつも日常から地続きである。

そしてもちろん純粋な踊りという概念は存在し得ない。どんな感情もまた踊りの想起させる感情である。それはむしろ否認すべきではない。そもそも踊りはその成立段階において、異性の肉体への特定の感覚が影響していたというのは多くの文献の語るところだ。

そういうことを思った。舞台上の異性の肉体に惹かれている部分があること、それを否定してはならない。そう思う。異性である場合、私には少なくとも何かしら揺り起こされる感情はある。どんな小さな物語を前提にしていても、その物語は大きな物語から自由になることはない。

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