【日常茶飯事】何かに依存し切るのではなく主体的になる
現代日本は、ラクに手に入る快楽がとても多い。
数百円で、誰もが旨いと思えるようなモノを食べられて、インターネット上には、無料で上質なコンテンツが溢れまくっている。
そういうものをみて、
「傷ついてボロボロになるぐらいなら、もうこれぐらいで自分の人生は十分だ」
と、低い目標にすがりつきたくなる気持ちは、わからないでもない。
しかし、実際に、困難を乗り越えて、良きものを獲得してみると、人生は、瞬く間に、別のステージへと突入する。
こうなると、人生は、本当の意味で自由になり、他人に依存する人生から主体的な人生へと変貌を遂げる。
私が思うに、多くの人は、人生を他人に依存しすぎている。
例えば、誰かから嫌になる事を昼に言われたとしよう。
それで、不快な思いに一時的に陥るのは仕方がないが、それをずっと気にして、夜も落ち込み続けていたとしたら、それは、完全に自分で選んだ結果である。
それまでの人生で、良いことも悪いことも色々あったのに、あえて落ち込むような事を考え続けるのは、自分で、そう選んだ選択に他ならない。
だから
「アイツのせいでイライラする」
と他責的な思考になるのではなく、
「そういえば去年いった北海道旅行は楽しかったな」
と、主体的に思考を動かせば、現実は、万華鏡のように見える姿を変える。
現実は、多様であり、自分自身もまた、多様である。
多様な人生において、何を選ぶかは、全て、本当なら、自分の意志で決められるのだが、多くの人は、世間や他人に決められたモノをみて生きてしまっている。
この状況が、不幸なのは、言うまでもないのだが、面白いことに、多くの人が、安心したいが為に、最大公約数的な意見に自分を収束させたがるかのように、自分という主体を割と好き好んで捨てている。
FIREも、実際に自分で3億円稼いでみて、主体的にそうだと決断するのなら、それはいい事だと自分は思う。
ただ、
「日本社会はクソだからFIREしないと幸せになれない」
のように、借り物の思考を使って、自分が不幸せな理由に答え合わせをするかのように目指していたとしたら、それは、完全に他人に人生を奪われてしまっている。
傷つくアクティビティを乗り越えて、主体性的に良い人生を選択できるようになる。
それさえできれば、お金なんて、些細な問題だったと、たぶん気がつけるはずだ。