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咲うφ(◎◎ヘ)ホォホォ

この『咲う』を、何と読むかご存知ですか?(^^)

「咲」は、“人が口をあけて身体をしならせてわらっている形”だそうで、『咲う』は、「わらう」と読みます。

「花が咲く」には、「花が開く」とは異なり、花が“わらいかけてくれている”と感じる日本人の花への気持ちが入っているんですよ。

冬の寒さがあるからこそ、春の日差しに花は、一斉に咲きはじめるんですね。

花の笑顔があふれる季節は、まだ、先になりますが、時には時間をかけて、その、待つ楽しみを、大人の醍醐味として味わってみる。

大人になると、待つ楽しみは自分で作ることが多い。

寂しいとき、花をみると癒されるって・・・・・・

もしかして、それは・・・・・・

ううん!

ほんとうに!

花が咲い(わらい)かけてくれるから・・・・・・

いつの間にか、こころがほぐれてくるのんじゃないかなぁ~って感じます。

微笑が浮かんでくると・・・・・・

縺(もつ)れた糸口が・・・・・・

唇のはじから解けて・・・・・・

自然に笑顔がこみ上げてくるのでしょうね(*^^*)

詩人のエミリー・ディキンソンは、

「花が咲くのは結果である。にもかかわらず、通りすがりにたまたま花を眺める者が、こまごました部分が開花に果たした役割を思うことはまずない。」

と言っていましたが、目立つことのない地道なことをやり続けなければ、持続できる結果は出ないし、派手で目立つ部分だけに注目すれば、再現性のない一時的なもので終わってしまうから、結果を出すためには、それなりの時間と過程が必要だということを認識して、咲いながら、楽しんで行きたいね(^^)

また、同じ詩人の坂村真民は、

「花は一瞬にして咲かない。大木も一瞬にして大きくはならない。一日一夜の積み重ねの上にその栄光を示すのである。」

と言っていましたが、短期間で大きなことを成し遂げることだけを考えていては、確固とした基盤は築けないから、小さな積み重ねを大事にして、確実に前進、成長する習慣を築いていくことで、時間をかけた積み重ねは、将来の揺るぎない基盤と自信をもたらすことになるはずです(^^)

そして、思想家である中村天風は、

「自分が知って知らずに関わらず、蒔いたとおりに花が咲く。」

と言っており、いま種まきをしていなければ、その結果として花が咲くことはないから、いま行動していることが、将来結果として現れてくるのであれば、どんな花を咲かせたいかをイメージして、そのための種まきをしていこうぜ!!

そう言えば、『古今著聞集』の「草木」の項(巻第十九:草木第二十九篇:646段)には、

「春は「櫻梅桃李」の花あり、秋は「紅蘭紫菊」の花あり、皆これ錦繍の色、酷烈の匂なり。然(さ)れども昨開き今落ち、遅速異なると雖(いえど)も、風に隨(したが)ひ露に任せ、變衰(へんすい)遁(のが)れざる。有爲(うい)を樂しむに似て、無常を觀ず可し。」

とあります。

春には桜、梅、桃、李(スモモ)の花が咲き、秋になると紅い蘭や紫色の菊の花が咲く。

いずれもそれは美しく、また芳しい香りを漂わせる。

けれども昨日咲いたかと思えば今日はもう萎れてしまうといった具合に、遅い速いはあれどやがて枯れていく。

そんな花の命の短さに、人の世の無常をずっと重ね見てきたのでしょう、ね。

13世紀中頃に編纂された説話集『古今著聞集』は、鎌倉時代、伊賀守橘成季によって編纂された世俗説話集です。

「古今著聞集 ほか」「(21世紀版少年少女古典文学館 〈第13巻〉)阿刀田高(著)

「古今著聞集 ほか」「(21世紀版少年少女古典文学館 〈第13巻〉)阿刀田高(著)

20巻726話からなり、『今昔物語集』、『宇治拾遺物語』とともに日本三大説話集とされています。

「今昔物語集」(角川ソフィア文庫)角川書店(編)

「今昔物語集」(角川ソフィア文庫)角川書店(編)

「宇治拾遺物語」(角川ソフィア文庫)伊東玉美(編)

「宇治拾遺物語」(角川ソフィア文庫)伊東玉美(編)

この詩に日本の心の全てが詰まっていますね。

桜梅桃李(おうばいとうり)という言葉は、桜は桜、梅は梅、桃は桃、李(すもも)は李の花や実を,己己(ここ)につけるのだということを意味しています。

『櫻梅桃李と紅蘭紫菊』の意味は、花のように 人間もその人の持つ素晴らしさや個性、特徴や力を存分に発揮して強く生きていくという意味です。

ちなみに、浄土宗では慣例として「桜梅桃李」を「おうばいとうり」ではなく「ようばいとうり」と発音します。

実は、「桜」という字には「おう」(漢音)よりも古い「よう」(呉音)という音読みが存在していて、仏教はおよそ欽明帝の時代に伝来したため、例外は見られるものの呉音が基調をなしています。

そう、誰も、櫻が梅だったら・・・・・・とか、梅が桃だったら・・・・・・とか考えないですよね。

増してや 櫻が牡丹のように大きな花をつけてくれれば・・・・・・とか、梅が紅蘭のようだったら・・・とか考えません。

花の形は違えどもそれぞれ花の良さがある。

人もそれぞれ良さがある。

梅が桜に憧れても、桜にはなれないし、また桜も梅にはなれない。

桜には、桜の、梅には梅の美しさがきちんとあるのですね。

それぞれに、それぞれの美しさ、すばらしさがある。

花だけが美しいのですか?

花だけに囚われていませんか?

時間(とき)の移り変わりで美しさに変わりはありますか?

いつの時間(とき)も美しいですよ、ね(^^)

人をうらやむ必要もなければ 過去をうらやむ必要もない。

あるがままの今のアナタが美しいのだと、教えてくれます。

上っ面(花)しか観えない人は、味(趣)のない人生。

私達人間も同じこと。

つまり、人はそれぞれ生まれ持った個性があり、人それぞれ違うのが当たり前なのだと言うことです。

人は、つい他人と自分とを比べ、一喜一憂してしまいがちです。

しかし、そんな生き方は、エネルギーのムダづかいですよね。

桜は、桜として生まれ、桜の花が咲き、桜の実をつけます。

それぞれの花を咲かせるのです。

人も同じですね。

それぞれが、それぞれの花を咲かせればよいのです。

それぞれの美しさを大切にしてゆくことが、大切ですね(^^)

そして、「花の終わり」の表現方法って知っていますか?!

桜は『散る』。

梅は『こぼれる』。

椿は『おちる』。

牡丹は『くずれる』 。

私の人生の幕は「こぼれおち」たい、かな。

梅と椿の双花は贅沢ですね♪(^^)

だって、みんな同じだったら、つまらないでしょd(^.^*) ねっ?

今日は、私のnoteに訪問して頂いたみなさんに、ささやかですが、q(^_^*)pこの詩をプレゼントしますね(^^)

受け取って頂ければ幸いです。

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桜は桜 梅は梅
桃は桃 李は李
どんな花も美しい

それぞれが それぞれに
力一杯 咲いている

もう少し赤ければ
もっと花が大きければ
そんなこと
これっぽっちも思わない

それぞれが それぞれに
ただ ひたすらに
咲いている

人間も同じだ
どんな人も美しい
どんな人も素晴らしい

それぞれが それぞれに
力いっぱい生きている

人をうらやむことはない
自分でなければならない花を
自分らしく咲かせよう
力一杯 咲かせてゆこう

それこそが

桜梅桃李

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【おまけ】


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