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才能との付き合い方

「ジャズのアドリブって才能ですよね?」

大学生のころ、サークルの後輩から悪意もなく無垢な様子でそのように言われたことがあります。

音楽をはじめとする、兎角芸術という分類に放り込まれてしまう何かしらは、「才能の有無」というのが全てだと言われがちです。

君はまだジャズサークルに入会して間もない右も左もわからない新人であったので、事前に打ち合わせもなくアドリブでその場の音楽を作っていく、いってしまえばよくわからん音楽であるジャズにそのような印象を抱いたのでしょう。

現代美術って、なんか自分は理解できないものなんですが、あれに大きな価値がつくってのはつまり才能の世界なんでしょうね。君の言葉はそういう風にも言い換えられますね。

ジャズをそのように認識しているなら、それは君の先輩が悪いですごめんなさい。音楽の良し悪しを決めるのは、どうしても耳触りのよさでしかなくて、しかもそれは慣れと学習の努力をもってして、いくらでも変化してしまいきます。(それを僕は都合よく成長と呼びます)

だからこそ、僕たちは確かな良い音楽の再現手段を知らず、論理的で解析的な言葉から離れて、感覚やセンスとか僕たちには適切(と思い込んでいる)な言葉をつかいます。君がそれを素直に聞いてしまうのなら、努力なんて無駄なんだと君を無気力に突き落とす意味に姿を変えます。

しかし、これだけは聞いておきたい。どうして「才能」なんて言葉を素直に信じられるのですか?どうして「才能があるかないか」を判断できて、自分は持っていない側に押し付けることができるのですか。

もしかして、この世に生を受けたその時から、「どうしようもないろくでなし」と「一生かかってもたどり着くことのできない天才」を識別できていたのですか。

それとも人の才能を見分ける方法を誰かから伝授したのですか。それは、〇〇大学才能学の権威とかですか。スタンフォード大学の研究が明らかにしましたか。誰かさんのyoutubeで、「才能ってのはスタンフォード大学の研究によると〜」とか言われていますか。(日本人ってのはスタンフォードとか、イェールとかそういう横文字の大学に弱いっぽい)


こういう話をわざわざ文章にしてみると、なんだか馬鹿馬鹿しい感じがしてきますよね。だって才能って、なんだか直感的に理解できる気がしますもの。そもそも、人生を厳密に定義している暇があるのなら自分の好きなもんに打ち込んでいる方が幸福に近づくでしょうしね。

そのように「なんだかわかりそうなレベルの認識」で、「それが真実であるかのように語られる」のが才能というものです。居酒屋の席で酔った人たちが鬱憤を晴らすために行っている政治的議論と同じノリです。そういうもので、あなたの資質は判断されているにすぎません。

もちろん、「才能なんてない、努力が全てだ」なんて、ジャンプの漫画に出てくるような血筋マシマシ主人公みたいなことを言うわけでもありません。学びの深度は、その人の思想に結びついていると思いますし、そもそもほぼ全ての人間は環境に大きな影響を受けるので、それはどちらかといえば“運”という、才能以上に残酷なものが関わってくるわけです。

でも、才能というどうしようもないのがこの世に存在することと、僕たちが他者の才能を適切に認識できることは別の話で、後者についてはそういう能力はほとんどないと思っています。

僕たちが「この人は才能ある」と認めるためには、その人の仕事っぷりや成果物を判断材料としていますが、これらは過去・現在・未来にわたって無数に存在します。

私たちが知ることのできるのは過去と現在のことだけなので、判断材料が大きく欠けている状態になっています。この時点で、人の才能を適切に判断することは明らかに難しいと断言できますが、それに加えて全ての成果物があったとしても遠い未来に再評価されるゴッホという例がいるわけです。

そんな風に判断材料も足りず、材料が揃っても見分けられずのカオス状態にある才能界隈なわけですから、ジャズのアドリブだってなんだって興味があるのだったら才能の有無なんて気にせずに好きなようにやって、それほど興味がないものに対して「才能ないので」と表向きの粗雑な理由として用いるのが現実的な才能との付き合い方ではないのだろうかと思います。

本買ったり、コーヒー飲んだりに使います。 あとワイシャツ買ったり