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発狂しかけたけどなんとか治った

 おととい(2021年3月6日)、気を違えてテンションが上がりまくった末に落ちこんで、昨日一日沈んでいたのですが、いまさっきようやく尋常の精神状態に戻りました。大変だったねぇ。

クルクルランドな一日のはじまり

 目が覚めると土曜。親いて嫌だわ。だけどすべきことせんとあかんわってんで薬を飲む。発達障害用に支給されているコンサータは、じわじわドーパミンを放出してくれるハッピードラッグ。

 最近飲まないでいたからちょっと効きすぎかなーとおもっていたら犬が私の背中を叩く。ついに懐いたのかと思いきや、ウンコしたいから散歩に連れていけの合図。ドーパミンのおかげか私はすっくと立っては散歩に行きて、犬のウンコを拾うこと枚挙に暇なし、まさに三面六臂のご活躍。犬の足取りも軽いのでそのまま近くの公園に。

 春めいた太陽の光は、緑ゆたかな公園にさんさんと降り注ぎ、らんらんと喜びがあふれる。犬もらんらんで、俺も目がらんらんである。って思ったところでなんかおかしい。基本的にまっとうな成人は日光が指している程度でらんらんしないはずだ。そして目がらんらんとなると、満貫確定である。私の精神はお狂いになっている!

 家に戻っても狂いだした精神は止まらず、暴走するカブトボーグのごとく加速しつづける。気持ちとしてはバグった3DCGのように動きたいが、身体は貧弱なオタクのままなので、どんどん身体と精神の差が開いていく。これがゴールドエクスペリエンスレクイエムなんと思いつつも、このままいけばやられるというニュータイプ的感覚から友達と通話することを選択。肉声で喋ればなんとかなろうという目論見。気狂いになったら狂いの道の専門家と話すのがいちばん、ということでHAIZAI AUDIOさんと通話する。

 やはり生粋の狂人(くるいんちゅ)であるHAIZAI氏は頼りになる。私の現況を話すと共感された。私は前にも春の公園で狂いかけたことがあるのだが、そのときは周りに狂気を理解するものがいなくて大変だった。

 ペンを走らせながら廃材さんと色んなことを話す。薬物、宗教、フライシャーアニメ、円運動、トランス周りのいろいろなこと。というとニューエイジのどうしようもない若者みたいだが、ちゃんと一定の距離間があったと思います。多分。そしてそんな話をしながら私が描いていたのはこれ。

さぁたんラフ2

 おめえ意外と普通の絵描いてるでねえか(モザイク部分はなんかゲームに使うかもしれないから加工したもので、あなたの幻覚ではない)。

 三時間くらい話しているうちに精神は少しだけ落着き、それ以上につかれた。通常の三倍のスピードで精神だけ消耗した感じ。

 通話終えて、少しゲーム製作をするか、ということで共同制作者であるtnhrと通話。キャラデザとか考えていくか~と思ったんだけど、どんどん疲れてきて結局大して進まない。というのも夕方になって太陽が沈んでいき、バフが切れていく。動物かよ。

 途中で「『春になると変な人増えるわね~』の『変な人』の仲間にはまだなりたくねえ」って言ったら「もうなっているよ」って言われた(要約)。そうなのか…。このnoteのタイトルも「治った」だけど「小康状態になった」とすべきなのだろうか?平和とは戦争と戦争の間の準備期間のことなのだろうか?

 で、時刻はまだ19時くらいだけど疲れ切ったので通話をやめて横になった。そうしたら──予期されていたことだが──精神がどんどん落ち込んできた。

ハイからローへ…

 昼の間の異様な盛り上がりが消えて、どんどん心細くなっていく。しかし身体が疲れているわけではないので眠れない。(私は不眠の対極、いつでも寝ちゃうタイプの睡眠問題を抱えている人間なので、眠れないというのは一年に一度あるかなきかの異常事態。)

 眠さと眠れなさのなかいろいろな感情が起きた。無の概念がエロく感じたり、ガチで幼児退行したい気持ちになったり、泡沫のようになりたくなったり……(希死念慮ではない)いろいろな脆弱さを集めたような状態になった。

 寝るという選択肢は正しいと思いながら、このまま夢と現の境界のなかで狂っていったらどうしようと恐怖におそわれた。朝起きたら狂人になっているかもしれない!いや、それはそれで浮世の悩みがなくなっていいかもしれない?ぐねぐねとした葛藤が発生した。

狂ったらどうなるのか

 では自分が本当にまともな創作も行えないほど狂ってしまったらどうなるのか想像してみた。それはいま考えてみると蓋然性の低い想像だし、そう単純な話ではないと思うのだが、そのときはまじめに、これからの運命かのごとく考えていた(時点で気がヘンにはなっていないか?)。
 自分がかかわった企画…人格わかれちゃんは自分がいてもいなくても細々と続くだろうし、いま構想されているゲームをtnhr一人で完成させられるかは微妙だけど何かしらの形で日の目を見ることはありそうだなとおもった。そして友達はみな自分なりの活動を続けるだろう。じゃあ自分狂っても問題ないのか…というところでオユちゃんの顔が浮かんだ……。

(オユちゃんとは私のコミティア漫画にほぼ毎回なんらかの形で登場する人物で、超人とか神とかに似たなにかなのだが、うまく表現できず、主人公として描こうとしてなんども失敗しているのだ。

ちなみにこれがおととし描いて失敗したオユちゃん誕生を描いた漫画。これがすでに3度目の描き直しだったのだが…。)

 で、オユちゃんはもともと超人とか神とかツインテールとか最強とか性別がないとか親を殺すとか、「自分がなりたいものの寄せ集め」みたいなキャラで、しかも繰り返し描いていることで自己との同一性が高く感じられるようになっていた。それでnoteのサムネで描いたりする自分の分身的な感じになっていった。だからぽやっぽやの精神のなかで明確に自分とは別の存在として現れたのは意外だった。

 いままでオユちゃんを自分と分離した内面を持つキャラとして考えたことは全然なかったのだが、「他者」としてあらわれた彼はなにかいとおしく見えて、この人は私が描かないと、だれにも知られずに未来永劫死に続けてしまうんだと思えて涙が出てきた。まだ正気を持ちながら生きてなすべきことがあるなと思った。

 いま要約してみると「自己のことをキャラを依り代に対象化して、自己愛を再確認した」というだけのことなのだが、それは自分の中ではとても美しいことだった。

 そのあとこのことについて「涼宮ハルヒの憂鬱」のラスト(アニメ一期のラスト、09年版アニメだと6話)を想起した。自己の構築する世界に無自覚に行こうとするハルヒと連続した現実に戻ろうとするキョンの会話は、発狂して自分だけの現実をめざそうとする力と現実を意識して戻ろうとする力の交渉ではないか?自分の精神はまさにそんな状態にあるとそのとき思った。
 やや曲解なのは自覚しているが、自我のバランスってそういうものかもしれませんよね。俺にはキョンはいなかったがオユちゃんがいたってことなのか……?

 で、話としてはそれなりに綺麗に収まるんだけど現実なのでそうは終わらない。そっから3時間くらい寝たら23時に起きて、そっからまた頑張って寝たら翌3時くらいに起きて、でもう一回寝たら今度は14時に起きて、って感じで寝まくったんだけど、昨日3/7は一日中やる気が起きず、だるいだけだった。ようやく3/8の朝になってようやく精神が平衡状態にもどったという感じ。

 まあ『シンエヴァ』前にいいコンディションが整ったんじゃないでしょうか。

  

 


 

にょ