イルカは攻めてくるが「人間」はいない

 遠い未来、はるか彼方の銀河で――。


アジエンスのCMは今見るとヤバイ

 twitterでルッキズム的な揶揄を受けた人についての反論を行っている人(揶揄られた人の友人)がいた。

 揶揄した者はそれに対し生まれ持った見た目ではなく、不潔さ(努力不足)を咎めただけだと反論。

 それに対し批判者は「入浴が困難な要介護者など、だれかの『清潔さ』基準を満たすことが厳しい人も多いため、それは結局ルッキズムの揶揄でしかない」という趣旨で再度反論していた。そして、引用RTではなくツイートの形で「ルッキズムを肯定するやつが大キライだ」とまとめていた。

 その後、その人が昔は「ブサイク」ネタを投稿していたことを掘られたのに対して反省を述べているのも含めて印象深かった。

 さてこの不潔さ・見た目揶揄に対する批判はまったくもって正当な論理だ。清潔さがコントロールできないのは要介護者以外にも精神疾患や過労、経済的困窮などもある。人として想像がおよばないのは未熟といえよう。
 さて、清潔さ以上に安易に言われるルッキズムは肥満だろう。病気で不本意に太らざるをえない人もいるし、そもそも脂肪のつきやすさはかなり個人差があるのに、それを雑にデブとさげすむことには悪徳がある。(自分はいまだまれに言ってしまうことがあります。)

 いま書いたことをまとめると、もともと語られていることは「清潔さは必ずしもコントロールできるものではない」という論理で、私は同じ論理で「体重や脂肪も必ずしもコントロールできるものではない」と言えるということを示した。

ロボット三等兵

 さてこれはもともと「ルッキズムに対する否定」という文脈だったが、この論理にはそれ以上に根本的な視座がある。
 まず先ほどの話を一般化してみると「人間の身体は必ずしも<人間>のコントロール下にない」ということになる。
 対象を広く取って身体というものに脳や神経も含まれるとも考えられる。我々はやるべき課題を先送りにして後悔するし、言わなきゃいいことを(うすうす気づきながら)言ってしまう。
 もう少し極端な例をあげれば、自動車を見ると走り寄ってしまう知的障害者もいれば、志半ばで自殺で人生を終える天才もいる。
 体が動かなくて風呂に入れないご老人と同じように、すべての人間はコントロールできないなぞの身体を操縦している…。
 抽象的に言うなら「人間の考える<人間>」は「世界に実在する人間」を支配していないということになるか。

 そして「人間の身体は必ずしも<人間>のコントロール下にない」ということと対立する概念・思想は「人間の行動は、それを行った個人によって完結していて、その人間の責任となる」ということだ。
 「不潔なのはそいつの努力不足」「太るのはその人の努力不足か太るのを許した結果」「自殺は完全に自由意志の結果」「生活習慣病は自己責任!」ということになる。
 要するにこれは自己責任論なのだ。ということは逆に「必ずしもコントロール下にない」ということは反自己責任論の一種ということだ。
 人間の身体についての責任を全てその個人が負えるわけではない。ということがこの論理の根本的な視座というわけだ。その論理にはかなり正当性があると俺は思うね。

 さて、この思想というか視座はすべての人間のわりとあらゆる活動に適用できる。それを突き詰めて考えてみて至ったことをこれから書くが、最初に言った通り、これははるか彼方のとおい未来の銀河系の話です。

 責任がないとしたら、身体をうまくあつかえないのも、精神疾患も、一つの現象のようなもの、という言い方もできるかもしれない。
 じっさい「認知行動療法」という広く受け入れられている療法には、<人間>には認知できない「”自分”の領域」があるということが前提となっているだろう。

 さてさて、ルッキズムをもとに揶揄した人がいた場合、発言者にほんとうに責任があるのだろうか。けっきょくそれもコントロール下にない身体の行動にすぎないんじゃないの。
 最初に「不潔さ揶揄」について私は「人として想像がおよばないのは未熟」と書いたが、人間の身体が人間のコントロール下にないのなら発言に付随する「人として未熟」の責任をその人が負わされるいわれもないのではないか?

 タイムリープして古代ギリシア人男性を誘拐して尋問したらそいつは「男が女子供を支配するのは当然だ」と述べるかもしれない。それをジェンダー差別と断定するとしても、それはその人の努力不足であるわけでもなければ、ましてやその人が独自に考えだした思想でもなかろう。
 倫理なんてそんなものじゃないか。実際最初の例で出した人も「昔はブサイクネタをツイートしていた」わけだが、それを捨てたのは10数年かけて一人で考えつづけた結果というよりは時代の変化による倫理の変化ゆえじゃないのか(断定はしません)。
 だから倫理違反だけを個人の責任になすりつけるのは本質的にフェアでない。倫理違反に対して怒ってその人の人格を批判するのも悪しき自己責任論にもとづいていないだろうか。(該当の人はかなり言葉遣いなどを抑えつつ反論されてはいたが)

恋が実らずネパール南部で殺人を繰り返しているゾウ

 そう考えていけば「ルッキズム」という名前をつけて呼ぶことすらおかしいのだ。人間の言動という現象が人間の考える倫理と抵触したところでそこになんらのイズムなどないのだ。
 もちろんこれは極論で、その人に確固たるイズムがなくとも集団論として社会学としてルッキズムは実在するというのは正しい反論だ。しかしそこに責任がないのなら、そのイズムとは、羽の見た目で交尾相手のオスを選ぶ(諸説あり)クジャク、大柄なメスを選んで交尾するデバネズミとまったく同じことだし、ルッキズムに基づく暴力性もまた、ストレスのたまったブタがしっぽをかじるのと同じ。
 責任というゴールポストがないのなら人間は自我のない動物と同じなのではないか。個人的には「はい、そうです」と答えたくなるが、とりあえず「反自己責任」についての結論。
 不道徳な言動をしたとしても、反自己責任論をかかげたものに感情的に怒られるいわれはない、少なくとも名誉毀損で損害賠償なんて責任論は(ほんとうは)おかしいと考える。

火の鳥2772 愛の全体主義ゾーン

 そして最終的に――はるか未来の話だぞ――すべての被告人は無罪になるべきなのだ。
 裁判というシステムは元来「人間の行動は、それを行った個人によって完結していて、その人間の責任となる」という思想に立脚しているから、自己責任論が批判されるようになってきて久しい現在、すでに崩壊し始めているのだ。今も「責任能力の認定」という仕組みがあるが、「有無」という判定にはだいぶ無理があるでしょ。
 だからいつかは裁判というシステムは発展的に解消されて、重大な倫理違反という「現象」に対して適切な処置を行うようにならないといけない。死刑はもちろん懲役も前科もぜんぶ無くすべきだ。いや、これは私が個人的に願望として思う以上にそうならざるをえないんじゃないかと思う。
 今は反自己責任論はやや左派的な倫理として機能している。キリスト教国でもイスラム教国でも日本でも保守派と呼ばれる人は自己責任論を回復しようとしているが、ほんとうは「反自己責任論」は右翼的な要素が強い。だって個人の思想や倫理違反の責任が個人にないということは、国家にすべてを帰属させる国家主義に都合のよい使い方ができる。
 レベルがかなり違う話だが、トランプさんがこのまえの予備選挙のために自動車産業の労働組合に出向いて、「お前たちの窮乏はお前たちの責任ではなく、バイデン政権の失策のせいだ」とあおっていた。それが正しいかどうかはともかく、そういう風に大いなる権力への集中として「自己責任など無い」というテーゼが語られていくんじゃないか。

 だから自己責任論の否定がエスカレートしていって、最終的に人の善性も悪性も信じない、システマチックな全体主義が誕生するとしてもおかしくないと思う。
 クィアな性表象も、左派的な分配論の流布も許されたまま、超越的な権力がすべてを支配してゆるやかに縛る。そういう未来があるとおもう。それとも今の様に、「自己責任論」と「反自己責任論」が恣意的に使い分けられる世界が続くのか、未来はどちらかしかない気がする。
 まさか「とってもリベラルで全員が全員の尊厳を認め合いつつ、犯罪や倫理違反を社会の失策として礼節をもって対処する公正で民主的な社会」など来るはずはないと思う。<人間>はそれほどよくはできていない。

 だから全体主義になるとしてもそれでそんなに人が死なないなら、それもありかなと思ったりする。私のこの思考は絶望なのか?ただの現象にすぎない……

にょ