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日記(誰かの価値観にのまれたくない)

日記

 ずっと家の半径2kmくらい(コンビニすらない)から出ていないことや、スケジュールの遅滞とか、自分の作業がうまくいかないことなどで、気が滅入る日々。

 漫画を描いてみている。なんとなく民俗学風味の話を描きたいと思って書いてみているが、1コマずつ書いているので完成するかわからん。完全に独立した場面を3Pくらい並行して描いているがつながるのかどうかもわからん。だが書いていると気が楽になる。

イチジホゾン

  こんな感じでバリバリの萌え絵でいく予定。忙しいから作画はこの水準の雑さでいかざるをえない。

 あと『遠野物語』読んでる(いままで読んだことなかったのかよ)。山人(やまびと)という怪異についての記述が最近はやりの八尺様とかと似た構造だった。神話の構造の話を読むのも面白かったし、今度は怪談の構造の話でも読もうかな。


価値観にのまれることのおそろしさ

 色々気が滅入るなか、小田急線でミソジニーに基づいた殺人未遂事件。ついに日本で起こったインセルテロとの見方をする人が多いし、まあ実際その要素は高そうだ。哀しくなるのであんまり深く調べてはいないんだけど、なんでこんな風になってしまうのか、ぼんやりとは考えてしまう。
 いろいろな見方、考え方があるのだろうけど、個人的には「誰かの価値観」にのみこまれるという現象が根源的な問題なのかなと思う。


 「女を獲得して女(および産物としての子供)を幸せにできた男が偉い」という価値観はいまだにこの国にあって、そこからの脱却ができない人がたくさんいる、という事実はまあ現実として受け入れざるをえない。今回の犯人もそういう価値観に囚われていたのだろう(まだ明確ではない部分もありますが)。
 でも「幸せそうな女性を見ると殺したくなる」と言って実行に移せてしまう人にとって、その価値観は自分を快い気持ちにはしてくれなかったはずだ。自分のことを低級に扱う価値観から抜け出せずに、凶行に移してしまうのは、社会に対する反逆のようなフリをしながら、けっきょくその価値観の肯定でしかないのだ。

 誰かによってすりこまれた、与えられた価値観を鵜呑みにして、勝手に苦しんで最悪な形で壊れる、人間の愚かさを煮詰めたような話だ。

 そういう犯罪が起きないためには、「それとは別にお前が生き延びられる価値観もある」ということを一般化していくことなのかなと思う。もちろん女性差別とか家父長的な権威主義とかそういう具体的な不条理を壊していく必要がある。だがけっきょく人間は何かの価値観を信じていかないと生きていけないと思うので、暴力的な価値観をなくすと同時に自分の生のありようとして美しいと思える価値観を見つけて築いていかないと、こういう殺戮が止まることはないように思う。

 ちょっと抽象的な言い方をしすぎただろうか(事件を矮小化するつもりはないです)。ちょっとまとめると「女ってさぁ」という言葉で女性全部をひとくくりにしてしまうような想像力が貧困な人間がなくなるのはだいぶ遠いと思うので、まず「価値観の提示」を世界の方向性とした方がいいんじゃないかってことです。


『ルックバック』修正について

 そういえば『ルックバック』の修正について、けっこう批判的なことを言っている人が周りでも見られた。でも、なぜ修正されたのか知らない人が多そうに見えた。とりあえず斎藤環の文章を読んでほしい(明言されていないが、修正もこの文の意をくむ形で行われたと思う。)

 物語に登場する「会話の成立しない殺人鬼」は多分に典型的な造形であるのに、それに実際の犯罪を強く想起させる言葉をしゃべらせるのは、誤解を広めるということだと思うんだけど、それは想像力の貧困さをもたらすからいけないってことだと思うんですよね。
 「女ってさぁ」という言葉で女性すべてをひとからげに扱うことが女性を苦しめるように、「精神障害者」や「キチガイ」というステレオタイプで扱う(しかも物語上の恰好の敵として描く)ことは精神疾患を抱えた人を苦しめることになるし、犯罪者をいわゆる「狂人」あつかいすることは犯罪者という立場になってしまった人間をさらに追い詰めていくことにもなる。日本は犯罪率が低いわりに再犯率がとても高いという歪つな社会なのだが、だれがそうしているのだろうか。

 じっさいに修正された『ルックバック』について、物語の出来が良くなったとはたしかに私も思わないのだが、こういう修正を俊敏にやったことはすごくいいことだと思います。だってそれは「社会に対して語る言葉、表現」として漫画をとらえているわけですから。それは「価値観の提示」という意味で世界の希望たりうると思う。


幸福の科学の価値観の薄弱さ

 この前友人知人と『UFO学園の秘密』というアニメ映画のオンライン鑑賞会をやった。これは新興宗教幸福の科学が出資し、自前のアニメ制作会社(!)に作らせた長編アニメ映画だ。

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 一緒に見た方々は「宗教布教映画としてはだいぶ出来がよかった」という風に語っていたが、私は映画としても宗教としても出来が悪いと思った。

 なぜなら幸福の科学の提示する価値観は現実と向き合っていないからだ。夢ってすばらしいとか、信じる心はすばらしいとか、そんなことしか言わないのだ。霊的存在に導かれた主人公たちがいきなり将来の夢を語りだすシーンは寒い上にクソつまらなかった。

 宗教というのは神とか仏とか霊とか、超常の存在を通して人間をつなげるものだと言っていいだろう。だが、信じるだけで神による利益がバカスカ手に入る教えはない。
 死後の救いを約束してくれる宗教は多いが、眼前にある現実はキリスト教徒でも仏教徒でも無宗教の哲学者でも変わらないだろう。具体的に言えば、伝染病による病死率や戦争における死亡率、経済活動の成功率。そんな重要なデータに対して神あるいは仏は介入してくれない。(統計をとれば信者のバックボーンとなる生活水準や暮らしのありかたの差のために全体として有意な差は出るだろうが)

 旧約聖書の『ヨブ記』には「神はいるはずなのになんでこんなに生きるのは苦しいんだ」というようなことを語る物語だが、超常の存在を介しながら現実と向き合うという面が宗教にある。

 しかし幸福の科学はそういうことから目をそらすためにきれいごとを述べるだけなのだ。大川隆法の著書(ということになっている本)をいくつかめくってみたが「霊的な力に目覚めれば強くなれる」ということばかり書かれていた。
 そういう安易で安直な価値観で現実と対峙せずに生きた結果がこの状況下でも幸福の科学が「法話」、「講演会」を連発するということなのだろう。公的な検証もされていないのでクラスターが起きたのかどうかすらわからない。だが、信仰の力で免疫がつくと言ってはばからないことがどれほど現実とズレたふるまいかは言わずもがなだろう。

それ以外にも幸福の科学は新型コロナウイルスについて、「中国によるアメリカ打倒のための陰謀」であるという説を唱えているし、トランプの不正選挙陰謀論も支持していた。

 

 こういう粗雑で安易な物語の価値観にのまれちゃう人がいるのは本当によくないなと思う。オウム真理教も米ロ間の覇権戦争をきっかけにハルマゲドンがおきるという物語をもとに、テロを正当化していた。まあ大川隆法がどういう人間かはわからないけれど、そういう価値観にのまれて、大川隆法のCDがコロナに利くと思ってまっとうな感染対策を怠った信者がコロナで苦しんだりしているのなら、それは暴力と同じだろう。

 自分なりの価値観を見つけるのが大事なのに、世の中には珍奇な物語で人を支配しようとする人もいっぱいいるという、この不条理が世界の苦しみの一個の象徴かもしれない。しかもステレオタイプな物語や宗教の布教をする人はそれを良かれと思ってやっている。

 自分なりの価値観をみがきつつ、いろんな人に面白い価値観をシェアできる存在になりたいなあ。つまるところ世界をよくしたいなぁ。


追記

この記事での性暴力のとらえ方は、ぬるい世界の受容の仕方にもとづいていた、という記事を書きました。間違ってはいないと思うが、スタンスにずるさがあったかもしれません。


にょ