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日記(無常、Остров、お絵かき)

無常だ~

 無常だ~というときがある。どういうときに感じるかというと人間がひしめきうごめいているのを感じすぎたとき。自分と関係性をもってくれる方々がいなければ生きてはいけないのだが、一方で人間関係の一切(自分のもふくむ)を感知したくないと感じる前提があり、見える人間関係になんであれ不快さを感じてしまうことがある。

 家の外でのコミュニケーションは一か月以上していないが、家を出ていなくともインターネットで無数の人間関係を築けるし、他者同士の人間関係を目の当たりにもできる。なんならSNSの方が切り取られた一面をスパっと見せられてしまうから、余計に嫌な部分を認識してしまったり本質的な空虚さを味わってしまうきらいがある。

 以前はSNSに飽きたら2ちゃんねるを見ていた。それは匿名性で人間関係などが見えないなかで延々とカスみたいなコミュニケーションが行われるため、そこには名を持った人間同士の関係性がないというよろこびがあったが、あそこがいろいろな暴力やデマや差別の温床ということを看過できなくなってから見なくなった。そもそも人間関係を厭うているのに、掲示板を見るというのが矛盾している。

 そもそも無常というのはなんなのか、どうしたらいいのだろうか。

 人間関係が嫌だ、浮世のことを見ていたくないという感覚が無常感のひとつというのは間違っていないと思う。そしてそもそも、無常とは「世界がうつせみの虚無によってできていることを思い出してしまった状態」なのではないかと思う。ふだんは忘れたフリをしているだけで、正しく目覚めているのが無常なのだと思う。
 だから無常は悪いことではないが、虚無の苦しみを抱えたままずっと生きると生活がうまくいかなくなってしまう。だからいい加減で無常を忘れて、ウンコまみれの俗世へ帰る準備をしないといけないのだが、そのために人間ができることは二つしかない。
 ワタワタと虚無から逃げるか、ふーと一息深呼吸してその無常を味わうかだ。いまの自分の状態をかんがみて、どちらをするのがいいか考えて、行動をとる、と言えるだろうか。

 いま雑に文を書いているのは、どちらになるのだろう。無常について書くことで味わいつつも、客観的な文章を書こうとすることで距離を置いてもいるような気がする。

傑作無常作品、『Остров』を見て!

 さて、フョードルヒートルーク監督の『Оcтров(日本語で島という意味)』という作品には少し救われた思いがした。

 なによりも大人向け短編アニメとして傑作なので見てほしい。

 (説明)木いっぽんしかない小さな島にいる主人公の近くをたくさんの船が通っていく。脱出したいと思う主人公を誰も助けてくれない。途中で争いが起こったりするが、結局主人公を救うものはない。聖職者やスーパーマーケット船が主人公のもとへわざわざやってくるが、ここから出たいという望みはかなえてくれない。それどころか、業者に唯一のよりどころだった木を切られたり、軍人に勝手に領土の旗を立てられたり、社会は主人公から奪っていくのみ。主人公の存在が俗世に知られても観光客やメディアが主人公の平穏を乱すだけ。さいご、油田が湧いたその島へたくさんの石油ポンプ船がやってきて、島は沈下して石油まじりの黒い水のなかにしずむ。そこへやってきたのは主人公とうり二つの人間。木片ひとつを頼りに泳ぐその人間とと木片を共有しながらふたりで外へ泳いでいく。

 私はこの最後に感激した。最後に登場するのは主人公に似た別の存在ともとらえられるが、わたしはそれは主人公そのもの、もう一人の自分なのだと思った。空虚な世界から自分を救ってくれるのは、けっきょく自分、自我だけなのだと、そう解釈した。

 そして最後の泳ぎ方がいい。二人は中がわの手で木片をつかみ、外側の手で水をかいて泳いでいく。それはまるで比翼の鳥で、よわよわしくも美しい。誰かが作って操縦する船に乗るのではなく、自分どうしで泳ぐというのは絵的に簡潔でありながらテーマを強くつたえている。

 また、それまでの展開はすべて「世の中は自分を救わない」、つまりひとつの無常をひたすら描いているのだが、変化に富んでいてテンポもよく、シニカルなユーモアと映像的な楽しさに充ちている。凡百の大人向けアニメとは一線を画している。

 自分もこんな、ユーモアと無常観が同居した作品が作りたいなあ。


絵の練習をしている

 絵の練習をしている。kindle unlimitedなどでたくさん教本を読み漁っている。歪みを感じにくい立体を描き、綺麗な線を引き、きれいに塗る。そうした技術を学んで、食っていくための血肉とさせるのはたのしい。まだ道半ばだが、遠くないうちにプロっぽい絵が量産できるようになると思う。

 でも自分の好みとしては整理されていない線や、デッサンとは異なる絵なんで、こういう技術書ばかりがイラスト教本として並んでいる今日の日本のイラスト界はちょっと多様性に欠けるような気もする。
 kindleと立ち読みと図書館で、大量のイラスト教本を読んだが、ほぼすべて「6.5~7.5頭身の」「整理された主線のある」「ある程度塗ったアニメ塗りの」「目がそれなりに大きい、左右対称な頭部を持つ」キャラを描くことが目標だった。もっと違う楽しみ方を伝えるイラスト教本があってもいいんじゃないか?

 もちろん技術を学ぶことを否定するつもりはないんです。「基礎を学んでから崩すべきなのだ」ということばは正しい。でも大半の人はそんな高みにはいけないし、「キュビズムの絵」と「キュビズムみたいになっている、ヘタな味わい深い絵」の間に、「消費される絵」としての本質的な差があるとも思えない。ともかくも、pixivにある、それなりにイラスト技術を身に着けた方の絵がイラストをほぼ描かない人が必死に描いた落書きよりつまらないというようなことはざらにあるわけです。

 また、日本の図工の絵画授業は「自由に描け」だけでつまらない、という意見に同意はする(実際当時そう思っていた)んだけど、かといって技術を教え込む時間になってもつまらないのではないかな。だって人間に絵なんて描ける必要ないし、「技術を修めることで絵がより楽しくなる」というのはイラストレーターの独善的な見方じゃないかと思う。まあ教育のことはよくわからない。

 自分に絵の才能はいっさい感じないんだけど、少なくとも自分に対しては「きれいな絵」を描くだけでは終わってほしくないなと思う。まあまだきれいな線も引けないのだが。教本にトレスが練習として推奨されていたのでやってみたのだけどまっすぐの線が引けないことに気づいたよ。

 そういえばまたお絵描き伝言ゲームをやった。みんなでアニメーションをむりやり作るモードでやったら意外と動くものになってびっくりした。一つ前のコマだけわかる状態で次のコマを描くのだが、その結果ふしぎな気持ちよさができているものもあった。

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 それでなんも考えずに描くアニメって面白いんだなとおもって一人でたわむれにアニメを描いてみた。

絵描き歌

ほんとうは絵描き歌みたいにしたかったんだけど、ちょっと時間がかかりすぎるのでやめた。ちなみに『ふり☆スペ』にはいくつかアニメーション(こんなんと違ってもっとまじめなもの)が入る予定です。


にょ