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日記(無音・色・音楽・神)

 作業とゲームを一日中していたら頭が痛くなった。寝てみたが4時間くらいで起きて、午前2時台に目覚めてしまった。

 ネット・SNSを見ても楽しくない。そもそもツイートを見る気がおきない。しかたがないのでスマホをうっちゃって電灯もつけずに部屋の隅で座っていたら無の音がやたら強く感じられた。無の音といっても特別な音ではなく、物音がしないときに聴こえる環境音のことです。

 最近ずっとヘッドホンをつけていたせいか、頭痛から解放されたせいか、それがすごく強くて、細い耳道の闇のなかを粒子が高速で飛び交うようなイメージが浮かんだ。


 小学生のとき、他者が見ている色は自分が見ている色とほんとうに同じなのだろうかと考えたことがある。自分が赤だと思ってみている色は誰かには緑に見えていて、自分が肌色だと思う色は他人には青色に見えているのではないか。逆に誰かには青色として見えている色がわたしの視覚では肌色なのかもしれない(色覚異常とかの話ではない)。
 もちろん私が「トマトの色とザクロの色と血の色が似ている」というのは誰とでも共有可能だから、色間の区別と同じ色の判断はちゃんと行われている。でも色そのものの感覚はもしかすると違うのではないか、そして違っても誰も気づけないのではないかと思った。

 それでなにか問題があるのかというと、なにも無いんだよな…?という結論にいたってなんか釈然としないまま終わったという思い出がある。
 実際、色というものは目が感知したものをもとに脳がつけているものらしいしから、それに近いことはあったりするんじゃないかと今も思う。

 そういうことがあったところで問題も起きないだろう。しかしどのような色を好むか、どのような線を好むかといった価値観にまでいくと、すごく微弱な個人的な「脳の味付け」に引っ張られるのではないかとは思う。

 で、音というものも、ほんとうに共有できるわけではないのかな、という風に思っている。絶対音感を持たない大半の人(もちろん自分も)は相対的に音を判断しているわけだが、可聴音域は人それぞれ違うわけだから相対の基準量、高さがまず違う。音量や音質や音像、BPMもまた相対的な感覚でとらえることの多いものだと思うからそうだと言えそう。

 それに加えて、無音との関係性もあるんじゃないかというのがきょう思ったこと。
 無音の環境音が聞こえると、わたしは耳の形に合わせて跳ね返る空気のなかのいろいろな微細な粒子のイメージや、流れる血流のイメージをしてしまうのだが、仕組みを考えると、極小の環境音と耳の形の関係性は強い気がする。まあ実験とかしたわけではないからよくわからないけど。
 で、耳の形によっては全然違う環境音の感じがあるのではないかと思う。環境音が違うとすれば、音楽やBGMの聴こえ方も異なるのではないか。これだけ共有不可能が前提がありながら、よく音楽という文化はあるものだと、改めて人間の文化のすごさを感じる。
 だがいっぽうで私が知覚する絵画は、音楽は、映画は、マンガは「どこまで実在するのか」、認知がゆらぐ思いを致す。


 神というのは「一定の人間の間で共有される祈りの対象」ではないかと思う。原始的な形を伝える宗教が山や川や海を神体とするのは、現前する物体のなかで最もみんなで祈りやすいものが山や川だからだろうと思う(デカいし立派だし食べ物の元だから祈りやすい)。それが地域すら超越しようとすることで観念的な神ができた。
 三月十一日に黙とうするとき、みんな頭に描くそれぞれの「東日本大震災」がある、あの感じ。私は黙とうは宗教的で現実を幻想化させるものだと思うからずっとやっていないが、あの大きな共有物がある感じは本当に神の原型で、その善き力も顕在なように感じる。
 その感情を共有して気持ちを同期させる対象としての宗教と、文化はよく似ていると思う。とくに音楽はその場の共有、その世代の共有ということが強く重視されるからそうだろうと思う。

 薬物はやってないしこれからやる気も無いから、肯定も否定もする立場にないんだけど、全て否定するのは無理があるだろうなと思う。なぜなら音楽文化と薬物がつながるのは宗教と薬物の関係性が強かったことの継承だと思うから。しかしオウム真理教が薬物を洗脳に用いて人間を道具にする上で相当な効果をあげたということもまた「宗教と薬物」の関係の最たるものでもあるのだ。


 みたいなことを考えているうちに精神がだいぶ満たされた。最近心の渇きを感じていたのだが、こういう内向きな思考が必要だったのか、と思った。
 作品をつくるという行為は「創造」という言葉が持つ神聖さとは相当な距離がある。なにせ誰かに面白がってもらうために作っているんだから、自分のなかに誰かの視点を持ち続ける行為といえる。つまり非常に俗的な行為なのだ。そして作品をたのしむのはその「誰かの視点を想像しながら作られたもの」を味わうことであるから、会話よりも厄介なコミュニケーションみたいなものである。

 最近の自分はその俗さに中毒を起こしていたのではないかと思う。そこでさらに俗のかたまり、SNSを開いたりするのは火に油を注ぐようなものだ。

 純粋な欲動として絵を描きたくなったので朝まで色々手を動かしたが、自分しかいない空間では描きたいこともそんなに見つからないのであった。引きたい線や見たい絵は浮かんでも完成させるまでいたらずに集中力が雲散してしまう。
 自分の思考は俗とは違う場所にあるが、俗界へ行かないと作れないという事実を確認できたので、ふたたびアニメを見たりして、何をパロディしたいのか考えた。

 創作物は俗から切り離せないということは、前段で説明した身体の感覚を完全には共有できないということとつながっている。創作という行為の喜びは、絶対に共有しえないはずの個の部分を、まがりなりにも共有してみせることで、創作という行為の苦しみは共有できない感覚を共有しようとすることに元凶があると言えないだろうか。矛盾した行為に楽しみと苦しみがあるのは当然のことだし、滑稽でもあるなと思った。

 そういえば痔が治ったので次回は肛門のはなしを共有したい。



にょ