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何のために運用しているのか?

改めて確認すると、以下のような言葉となる。

経済的選択肢の確保のために、負える範囲のリスクをとる。

経済的選択肢とは何か?

自身の老後資金の問題もある、家族を守るためでもある。これ以外に両親の老齢の問題もへの備えという側面がある。

僕は故郷から離れた場所で働いている。故郷は地方にあるため、戻って生活することは現実的ではない。多分、今以上の待遇で再就職するのは困難であり、求人も見込めない。
つまり、自分が面倒を見るというのは、不可能だと思う。
よって、サービスを利用せざるを得ないだろうと考えている。そのサービスに一体どのくらい費用がかかるのか、まだ調べていない。ただ、頭の片隅にこういうことが起こりうると考えている。

本当の孝行とはなんなのか、考えている。自分はまともな孝行はできずにこの年まで生きてきた感覚がある。ただ、経済的に自立しているので、そこはよしとする。

自分自身もそうだが【長生きするリスク】を想定しなければならないと思う。寿命は短いのか長いのかはわからないが、思い通りにはならない、ということは確かである。

僕は政府を信用していないので、あと25年後ないし30年後に生きているとして、得られる年金は悲惨なものになると考えている。

自分にとって、自由は非常に大事で、自由という言葉の内側には、比較しない、故に比較させない、ということを含んでいる。

ただ、この世は不自由で、ある種呪いのように比較や差別、区別がつきまとう。

そして、老病死を具足したうつし身を生きている。

これは厳しいことで、誰も代わってくれない。何が正しいのか、全然わからない。ただ、起こり得る可能性については、予め先立って備えはしておこうと思う。

備えを使わずに済めば、それに越したことはない。喜ばしいことだ。

経済的選択肢の確保、というか、自分と家族のために、この数年続けてきた運用というテーマだということを確認した。

気を引き締めていこうと思う。

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