「救済」から見る斑鳩ルカの周囲

キリスト教的観点からの救済の考察に関しては素人なので先人に任せる。
一般的に身近に触れる「救済」、どちらかというと「救う」「救われる」に近いか。その辺りを考えていく。

まずこの記事の根幹になっている自分の考えを述べておくと、
「人ひとりが、人ひとりを救おうとすることはおこがましい」
ということである。
これは人が人を「手助け」したり、「手伝う」ことは出来るし、「支える」ことは出来るが、最終的には自身の力で立つ必要があるという話である。

これは持論だが、そもそも何かしらの重大な悩みを抱えている人間は、その人の人生の積み重ね分だけの重みがあり、それを他の人間がすべて取り除こうとするならば——救おうとするならば——、その積み重ねた年月分付き合わなければならない、と考えている。
相手の重み分だけ、こちらも大きく身を犠牲にする必要がある。
しかし、他者を「救おう」とする人々が、いったい本当にその重みを分かっているのだろうか。その重みを覚悟して救おうと本当にしているのだろうか。
「救われた」と、施しを受けた側が受動的に思う分には自由だと思うが、「この人を救おう、救ってあげよう」と思い行動に至るということは、生半可なものではなく、大半の場合はおごかましい行為であると言うことだ。

・おごかましく「救おう」とするルカのプロデューサー

ここから多少ルカのプロデューサーを非難するような文章を書くが、ルカPが嫌いなわけではなく「好きな友人に「お前しっかりしろよ」と怒ってる」ような立ち位置なので、別に嫌いではないし全否定するつもりではないのでご留意いただきたい。

ルカのプロデューサーは、しきりにルカに対して「私がついてあげなきゃ・・・!」という視線で接している。ルカに対して一見真摯に寄り添っているように見える。
確かに、心の弱っている人間が、いざ頼りたいときに頼りたい人がいなければ辛い思いをするかもしれない。そう考えると付きっ切りでいてやりたいと思うかもしれない。
しかし当然ながら、ルカPはルカのみに全力を捧げられるわけではない。プロデューサー業である以上、社会人であり、取引先とのやり取りもあるし、社内のやり取りもある。
それなのに、さも「いつでもいる」ような対応をしていくと、今度はルカも「いつでも頼ろう」としてしまう。しかし実際問題、24時間365日付き添うのは不可能だ。そうした結果、「いつでも頼ろう」としたルカを裏切る形になってしまう。
人を救おうとするとき、別に本気ですべてをなげうって24時間365日付きっ切りでそいつの悩みに付き合うという路線もあるし、少数だがそういった人間もいるかもしれない。ただルカPはそうではなかった。
いや、そもそもそんなことできる人間なんてそうそういない。

いないので、普通できないので、誰かを頼らなくても一人で立って歩けるような手助けをルカPは本来しなければならない。
それをしないのは、ルカPもルカを救おうとすることで自分が救われたいんだろうなと思っている。
誰かを救うということは、それを達成した時、自分の存在価値が認められたような気がしてしまう。自分の自尊心を埋めるために、誰かを救おうとする。誰かを救うことによる自尊心の補完は、むしろ自覚的にやっていたほうがまだいい。自覚的にやっていない場合、その「救い」はただの共依存となる。
半端にしか救えないがゆえに、相手は救済者(となろうとしている人)を頼ろうとして裏切られ、かと思えば救われ、と、振り回される。
逆に救済者は、永遠に完成しない救済に自分の自尊心を傷つけつつ、他者を救うという行為でまたそれを回復しようとする。
救済者も被救済者も、傷ついては救われ、傷ついては救われ、を繰り返すのみで、そこに何も進展はない。

そのループを断ち切るには、お互いの共依存関係をやめ、各々が一人で立ち上がれるように適度なサポートにとどめていくしかない。
それをやめなければ、そのループは永遠に終わらないと思う。

・「救われたい」くせに「救おう」とするファン

僕はシナリオ上で出てくる斑鳩ルカファンが好きだ。
典型的な愚かな人間って感じがして……。
どういうことかというと、ルカファンはみんな、鬱っぽくて、救われたい、「救って」「助けて」とルカに求めるようにコメントする。

そのくせ、ルカをどこか下に見ているというか、憐れんでいるような目で見ているふしがある。

あぁ、嫌い
憐れむみたいなその眼が
あぁ、嫌い
何様気取り?

斑鳩ルカ『神様は死んだ、って』

斑鳩ルカの歌『神様は死んだ、って』は色々読解できると思っていて、その読解のうちの一つとして、これはストレートにファンと自分のこと言ってる歌なんだろうなと思っている。
裏の意味としてSHHisが絡んでいるという話もあるが、そこはスルーしていったんストレートな”表”の解釈を語る。

ルカの元には、憐れむような、何様気取り?と言わんばかりのファンの声が、まがいものの救済を求めにやってくる。
神様なんていない。
お前らの言う神様は死んだ。
神様なんていない。
楽園なんてない。
『大丈夫、私はルカを信じている』
うるさい。黙れ。
ありものの綺麗事で救おうとするな。
私に救いを求めるな。

表の解釈はこれだと思っている。

ルカのファンたちの、救われたいという欲求、ルカに神様としての要素を求めるくせに全く神様として敬うどころか逆に憐れむようなそのおこがましさにブチギレている歌だと思っている。

・「救いたい」し、「救われたい」おこがましさ

ここで前者(ルカP)にも後者(ルカファン)にも共通して言えるのは、「救おう」とする側と、「救われよう」とする側のはずなのに、どちらも逆に救われたいと思っているし、救いたいとも思っているのである。

その時点でそもそも「救い」は成り立たないのである。
人ひとりに求めるものとして「救い」はあまりにも重すぎるので、無理して救おうとする側が救われる側に回ってしまうようなことになっている。そして救われる側も、救おうとする側を憐れみ、救おうとするループ。

ちゃんとこの構図をもう少し理解して「救うって重い行為なんだな、救いを求めず自立して、支え合わなきゃいけないんだな」となれば、互いが互いを支え合うよい関係性になっていくと思うが、そこの理解がないまま、相手に重圧をかけていくばかりなので、結果的に誰も救済されない。

おこがましいだけではなく、誰も得をしない行為なので、「救おう」とする人を見るたびに私は強い批判を浴びせることにしている。

しかし一方で、そういう矛盾を帯びているのもそれまた人間らしく、だからルカファンやルカPを見たり書いたりするのは面白いとも思っているし、こうやって批判をしている私も矛盾を帯びていない人間かといったらそんなことはない。先ほど述べたように別にルカPが嫌いなわけではない。

だからこそ、人は互いに支え合っていかなければならない。
人ひとりで出来ることなんて、たかが知れているのである。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?