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『絆光記』感想

バイ・スパイラルとの対比

私は、バイ・スパイラルの闇の住人の声を否定できない。
闇の住人が、同じ闇の住人たちに同調し、そこに頼ることを、否定できない。ただ、どうしても、闇の住人で居続けることは幸せでは無い。

では、だからといって、ここで五秒で思いついたような綺麗事、光の言葉を並べ立てたところで、闇の住人に届くだろうか。
届かない。
だから一時的には、闇の住人に寄り添ってもらう必要はある。

では。闇の住人は、闇の住人を救う寄る辺となる人間が、幸せになった時にどうするのか。闇の住人の主人が、闇の住人ではなくなった時にどうするのか。

昔、自分には好きなメンヘラ小説作家がいた。
その人の小説はとても衝撃的で、当時若い自分にとっても重すぎるぐらいに濃厚で、光の住人なんてくそくらえと言わんばかりの文章で、それでも生きていく人間を泥臭く描いていて、とても好きだった。
わかったふうな人じゃない。この人はわかっている人だ。
そういうふうに思っていた。
ただ、しばらくすると様子が変わってくる。
だんだんと毒気が抜けてくるのだ、小説の。
もちろん、先にも書いたようにその人の小説は少し“濃すぎる”。
だから毒気が抜け出してむしろちょうど良くなってきた。
あまり作者本人の私生活に踏み込むのはよろしくないが、どうにもその作家は闇の住人からは抜け出しつつあるような印象だった。
それで良い感じに毒気が抜けたあたりで大きな賞を獲った。

しかしそれからというものの、その作家は迷走した。
本人自身も、闇の住人として書いてきたからだろうか、それ以外の小説の書き方がわからなくなったのかもしれない。
女子の薄暗い人間模様を描いていたはずが、いきなりSFになったり、描く対象年齢が急激に変わったり。
どれを読んでも、全く面白くなかった。
いや、面白くなかっただけではない。
この人が、何を言いたいのか。何を訴えたいのか。
闇を抜けて、ならば光を書こうとしたいのか。
あるいは、それでも闇を書こうとしたいのか。
それすらもわからなかった。
一作一作、書くごとに作風も変わり、
毒を書こうとしても書き切らない。
かといって、完全に毒気が抜けた作品も書けない。

私は、その作家が幸せになってしまって、その作家のファンではなくなってしまった。

もちろん、『幸せになったかどうか』なんて、こちらの尺度でしかない。
だが、不幸せのみを原動力に描き続けた時、作品を生み続けた時、その不幸せが終わった時にどうなるか。
どうやっても作風は少しずつ変わっていく。
人間だから当然、変わっていくし、それと同じように作風が変わるのは当たり前だろう。それでも、人は何かを、大樹に寄りかかるように、何かを支えにしたくて寄ってくる。

その寄る辺としての闇の住人は、あまりにも不安定すぎるということを言いたい。

Twitterはかれこれ十五年ほどやっているが、Twitter初期に有名メンヘラアカウント、なんてものもいくつかあったが、当時の元メンヘラにきくと「大体死んだか、丸くなったかで消えた」と言っていた。
本当に不幸がわかる人は、不幸が続いてしまう人は長生きできない。
長生きできる人は、不幸から脱却する。

闇の住人を寄る辺にしていったとき、“互いに“引きずり混み合う結果にしかならない。

互いに、とは?

バイ・スパイラルでルカは闇の住人のある種、寄る辺となっていた。
しかし、その状態でルカが幸せになったらどうなるだろうか。
ルカが、『神様は死んだ、って』の歌が合わない人となるということ。
ルカのマイソングコレクション『BLUES』では、ルカが不幸になればなるほど、『神様は死んだ、って』の曲調が彼女に合うようになってしまった

逆に言えば、今後ルカが幸せになればなるほど、『神様は死んだ、って』で感じたような魅力は変わっていってしまうということ。

そうすると、ルカを支持している闇の住人たちの一部は、”引き摺り込もう“とするのではないだろうか。
なんで、幸せになってしまうんだ。
なんで、お前だけ幸せになってるんだ。
昔のお前はどうしたんだ。
昔はもっと良い歌だったじゃないか。
そんな綺麗事を歌うようになったのか。
ユニットを組むようになったのか。
孤高の存在じゃなかったのか。

私たちの、仲間じゃなかったのか。

私は闇の住人同士ばかりで集まることを、一時的には肯定しても、長期には否定する。
必ず一人は支えになる光の住人がいないと、崩壊する。
闇の住人同士で集まっていて、本来はそこから、闇から抜けることを目的としていたはずなのに、いつしか、みんなで集まること――闇で居続けること――がどこかで目的になってしまう。
そうして、むしろ幸せを否定しようと、闇の住人であらせようとする強い作用が働いてしまう。

でも、生きていく上で、闇の住人で居続けることはほぼ無理なのだ。

とはいえ、それは闇の住人に対して無理解であって良い、という話ではない。逆に、自分が闇の住人ではないから、あるいは闇から抜けたから闇の住人のことをわかってやれない、理解してやれない、向き合えないと思う必要もない。光には光の向き合い方がある。

それを伝えるのがこの『絆光記』であったと思う。

壁を超えてくるということ

この『絆光記』で、イルミネが仕事の一環で職場体験をする。
漁業に従事する地方の女学生たちと交流し、イルミネはその職場を体験する。最初は楽しく職場体験をしているイルミネたちだが、めぐるに心無い言葉をかける現地の女子が現れる。

しかしこれは、じゃあ、この女子が悪いのか?
女子からしたら、これは本音だ。
自分たちは、毎日この仕事をして、楽しい部分だけでなく辛い部分も分かっている。毎日するからこその辛さも分かっている。
だから、表面上だけ撫でられると、わかって欲しいという想いも出てくるだろう。
現地の女子3を一方的に責めることなど出来ない。

この女子からしたら、おそらく、”超えてこないだろう“と思っていると思う。めぐるは、今自分が作った壁を超えてくることはない。
正直、確かに正論ではあるとはわかりつつも、こんなことをいきなり言われてこの女子のことをよく思う人は少なくとも居ないだろうし、距離を置いてしまうだろう。

この女子からしたら、まだ、画面越しの存在なのだ。めぐるが。
カメラの前でいい顔をしていて、その実、どうせ毎日やってればこの仕事に飽きる。嫌になる。取り繕っている存在にすぎない。
目の前にいたとしても、壁のある存在にすぎない。
そこにさらに、この女子は壁をわざわざ作ってきた。心のない言葉で。

超えてみろ、この壁を。
どうせ、超えてこない。

そういう想いだったのではないだろうか。
しかし、その後にめぐるはその壁を超えようとぶつかってくる。

汗かいたことなさそう、という声かけに、めぐるは応じる。
どうせ超えてこないとタカを括った女子の壁を超えて、めぐると現地の女子はかけっこをする。

そうして、この女子が、ようやくめぐるのことを、画面の向こうの存在としてではなく、アイドルとしてのめぐるではなく、一人の人間としてのめぐるを見つめることになる。

と、ここまでくると聞こえはいいだろう。
ただ、ここで自分が闇の住人だった時にこれを読んで、ここで何をいうかを想像すると

『そんなことでわかってたまるか』

という言葉であると思う。

ここは、本当に難しい。
私は今、昔の自分という闇の住人の説得に苦慮している。
もちろん、この作中の現地女子3はそれで少し救われたのかもしれない。
しかし、我々(シャニマスの読者、プレイヤー)からしたら、これも物語上の話に過ぎない。言葉に過ぎない。
だから、どうしても”たかがかけっこ“に見えてしまうのではないか。

じゃあ今の私は?と聞かれると、ここ5、6年で色々といい人間の巡り合わせもあり、自分の壁を超えてきてくれる人にたくさん出会えた。
それこそ、先の現地女子のように、”どうせこいつは壁を超えてこない“といじけた時もあった。けど、光の住人は、超えてきてくれる人はいる。
でもそれは出会いの問題だ。相手の問題だ。自分の力でどうこうできる問題ではない。

ましてや、自分の力でどうこうできる問題ではないからこそ、経験の問題で片付けてしまいたくはない。自分にとっては、たぶんこの壁を超える感覚、超えられる感覚、経験しなければわからなかった。
経験する前の自分にこのストーリーを見せても、
”こんなので、わかってたまるか“
で終わる。

だが、そこで放棄してしまって、いいのだろうか。
”経験してない人にはわからないよね~”
と相互理解を終わらせてしまっていいのだろうか。
他人にとってもそうであると、終わらせてしまっていいのだろうか。
言葉の力はそんなもので、いいのだろうか。

だからこそ私は、自分は光について語らないといけないのだろう、とライターと同じことを思う。このルポライターは少なくともイルミネを目の当たりにして、何かを感じた。綺麗事だけの存在だと思っていたイルミネに。
うまくいかないとわかりつつ、記事を書いてみて

『結局表面上の職場理解、楽だなw』
『辛さ知らんくせにw』
『俺らの気持ちなんてわからんよ』

なんて、言われるかもしれない。
言われるかもしれないが、抗って、書き続ける限りは、近づける。限りなく。

壁を超えてくれて、それで何か考えが変わった人間が目の前にいるならば、
自分の言葉がいつか誰かの壁を超えることがあるのではないか。
誰かの障壁を取り払えるのではないか。
そういう希望のお話。光のお話。
言葉を扱うものにとっての。

ここで結果が書かれていなくて良い。
ここに都合のいい話は書かれていなくて良い。
ここではこのライターの記事が”良い“と言われていることだけは出てくるが、それが大成功したのか、その後賛否があったのか、そういう仔細については出てこない。
それでいいと思う。それであっても、抗う人がいるというそれそのものが、
抗い方が書かれているというそれだけで、我々にとっての救いになるし、
抗う理由になると思う。

だから言葉を書く自分にとって、このコミュは定期的に読み返す存在になると思う。自分がどうやって、壁を超えようか。言葉を紡ごうか。
何のために言葉を書こうか。
そういう軸になるようなコミュだったと思う。

終わりに

書くのがこなれてくると、なんだかいやらしくなる。
とりあえず浮かぶ文章をツラツラ並べるだけで終わったり、自分の本心を隠してそれっぽい言葉をダラダラ並べて、見かけだけは良い文章にしてその実なにも本質をついていないようなことを書いてそれっぽくしたり、そういういやらしい手法を覚える。
本心をぶつけて、下手な言葉を並べようとすることが恥ずかしくなってくる。

だからこのライターは40過ぎとかになってもそういう自分の壁もちゃんと自分で越えようとしてるのえらいな~~~と本当に思う…。
このライターはどちらかというと綺麗な言葉ならべたくない、だからきれいごとな仕事はしない!みたいなスタンスのほうだけど。それでいてちゃんと光に向き合おうとするのは、エライ。本当に。エライ。

ちなみに40過ぎのライターが悩む話はちょっと
『パーティーが終わって、中年が始まる』
を思い出した。

少し方向性は違うが、これは40過ぎのライターが、自由に、責任を持たず家を持たず、ふらふらと暮らしていたがだんだんとその生活に限界を感じてしまう実体験の話だ。
なんなら文字書くのも限界を感じ始めてしまう。
アラフォーとはそういう年齢だ。
だからむしろ絆光記のルポライターはこの年齢まで反抗期で、それでいて光を書こうとするのマジでえらいな~~…。と思ったりした。

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