コラム:創作する脳ってみんな持ってるよねって話

創作って大変だ。
だけどもたぶん、みんなできることではある。考えるまでは。

「えー創作ってムズイよ」

というのはわかる、全然。俺全然書けてない。ムズイ。
けど

「ゼロから考えるのムズイよー」

ということはないと思っている。

これは創作を一切しない人向けへの言葉なので、
0を1にするのではなく1を10に膨らますのは実際ムズイし、
だいたい自分はそこの創作で詰まることが多いのでそれはわかる。

全人類、『創作する脳』自体は持ち合わせているということが言いたい。

なんでかというと、仕事をしていて思うが、人とコミュニケーションをしていて、その中で一番やることは『自分と他人の認識合わせ』だからだ。
どーやったって、なにしたって、自分と他人の認識が一発で合うことはない。絶対に自分の認識の仕方と、他人の認識の仕方は違う。


就活での認識ずれの話

一個認識のずれの話でもするか。
僕が就活をしたときに一番びっくりしたのは、『体育会系と文化系の差』だ。僕は文芸部の部長をしていたので、そのエピソードを就活で話していたが、しばらく就活がうまくいかず苦難していた。
ただ、その中で1人、かなり丁寧に話を聞いてくれる面接官がいて、そこでだいぶ認識の差がズレがあったことが判明した。
僕が受けていた会社は大体が人事が体育会系だったわけだが、体育会系の大半はチームプレーが求められる。他方で、僕がいた文芸部は小説を書く個人プレーで、かつ、『団体で一緒にやること』自体は極論言えば不要なサークルである。当然体育会系でも個人技のサークルはあるだろうが、体育会系の大半はフィールドや道具が必要になる。
文芸部は道具もフィールドも、何もいらない。紙とペンさえあればいい。つまり、嫌になったら抜けられてしまうのだ、あっさり。しかも、より書いてくれる人ほど。
なので、体育会系のように『いかに団体を取りまとめるか』ではなく、文芸部では個人プレーをする人々に『いかに団体としての価値を感じてもらえるか』を感じてもらうことが大事なのだが、それがどうも体育会の人たちにうまく伝わっていなかったらしい。それは自分が体育会系の団体への所属経験がなく、そこの差異の理解がなかったことが原因だった。

しかし、その面接官のおかげで、そこは落ちてしまったが、認識の差異がはっきりわかり、そのあとの別のところの面接がすいすいとうまくいき、今の会社に縁があることとなった。

創作する脳

先の就活の話で言えば、僕の中でストーリーはしっかりと出来上がっていた。しかし、それがうまく他人に伝わっていなかった。
それはたぶん、僕の最初に作ったストーリーが、あまりにも自分の中や自分のとても近い周囲に閉じてしまっていたストーリーになっていたからだ。

かつ、それで「相手にも当然伝わっている」というストーリーまで作り上げてしまっていたからだと思う。なので、そもそも「何故面接がうまくいかないか」自体、理解できていなかった。伝わっているのは大前提として、
「文芸部ってウケが悪いのかなー」
とか
「なんか合わなかったんだろうなー」
という感覚しかなかった。

ここで『創作する脳』についてもう少し話していく。
『面接時に話すストーリー』は、当然、一本の話にするために『創作する脳』が働いている。これは誰にでも備わっているだろう。
必ず、皆は誰かにわかりやすく話したり、理解するために、『創作』、ストーリー化をする。
こういう時に必ず人は創作を行う。
僕が言いたいのはここで、創作することそれ自体は、人間はだれしも身近で行うということだ。なので、生み出すことそのものは、特に苦難することではない。

ただ問題はこの先で、
自分の中では
『面接がうまく行かないのは、会社と合わなかっただけ』
『文芸部はウケが悪いだけ』
というストーリーまで無自覚に生み出していたということ。
それまで、『うまく話しが伝わっていない』というストーリーは自分の中に存在していなかったのである。

自分はここで事実を一部認識できず、誤ったストーリー化を自分の中で展開していることに気付いていなかったのである。

本来発生してほしくないところで、『創作する脳』が作用してしまっていることに、自覚がなかったということである。

創作する脳を『自覚する』ことの大変さ

つまり、何が言いたいかというと
『創作する脳』自体はだれしもに備わっており、アイディアを生み出す源流はある。しかし、それが作用している自覚すると言うことは、めちゃくちゃに大変なのである。

それが全部自覚できれば、仕事でも何も苦労しない。
人とのディスコミュニケーションは、必ずその『誤った創作』によって発生する。
Aさんに「今週金曜日までね」といった仕事を、私は「金曜日の会議で使う」と伝えたつもりだった、しかしAさんは「今週の金曜日までに完成、つまり週明け月曜日に使う予定」と勘違いした。
こういうディスコミュニケーションが発生した時、各々が勝手に誤った創作をしている。
私は「今週金曜日までといったら木曜日には完成させるだろう」という誤った創作を展開しているし、Aさんは「今週金曜日までといったら週末だし、当然月曜日に使うのだろう。金曜日に使うなら木曜日までというだろう」という誤った創作をしている。
各々が、足りないところを補う際に、『誤った創作』を行う。

それは、『創作する脳』自体は誰しもが有しているが、それを『創作した』という自覚がないということに他ならない。

自覚するには発信するしかない

さて、実際の創作の話に話を戻す。
僕の周りで創作がうまくいってる…と思う人は、
だいたいがめちゃくちゃ作ってる。作って発信しまくってる。
それはある種ここでいう『ディスコミュニケーションの解消』、いわば『創作する脳に対する自覚』が発生するからだと思う。

僕がたまにやるのが、例えば話を書いて、自分の中ではストーリーになっているが、実際寝かせてから1か月後ぐらいにその話を見返すと、話が途中でめちゃくちゃ飛んでいて、わかりづらくなっているのである。
それは自分の中で勝手に脳内補完してるし、かつ、それで「相手(読み手)にも伝わってる」と思い込んでいるから発生している。

それは作りまくれば作りまくるほど、自分の『創作する脳のクセ』が分かる。それはどうやっても作らなければわからない。
極論、100字程度の創作から始めてもいい。
いったんどこかで無理やりにでも、作ってしまわないとわからない。

いつか受けた創作講座で、1000字ぐらいの日記を書いてくる課題で、1行しか書けない人がいた。ただ、その1行を書いたことで、講師は「なぜ1行しか書けなかったのか」ではなく「なぜこの1行だけは書けたのか」「なぜここに注目したのか」を聞き出した。
1行だけでも書いて出したことで、この人は前進した。

創作するならまずは作らないと、自分がどういったところで『いい感じの創作脳が働いている』のか、『あんまりよくない感じで創作脳が働いている』のかが、わからんのである。
自分で書いて誰にも公開せず自分の中にしまっていても、ちゃんと自分で見返すのであれば案外効果はある。
というわけで、創作全くやったことないけど創作やってみたいね、という人は、まず作ってみてほしい。
んで見返してほしい。

自分の作ったものでも、その時完璧と思ったものでも案外穴があるし、
その時ゴミクソと思ったものでも、しばらく寝かしておくと案外いいところが見えたりする。
それをするには、たくさん作って、ため込まないと、寝かせることもできないので。

実際このnoteも公開してから初めて「あーここくどいな」「わからんな」と思って書く。けどだいたいの人間が見てないし、公開した瞬間に「わかりづれーーーよボケがっ!!!!!!!!」って怒鳴り散らしてくることはない。だいたい人は他人に興味ないので。なので公開してからゆっくり修正したりする。そんなもんでいいのである。


と、ここまで偉そうなことを書いて、ぶっちゃけいうほど創作は出来ていない、私は。
こういう日記というか、ある種人々の考え方とか、自分の考え方の言語化自体は得意だからこうやって書いているというだけなので。
自戒のために書いているというのも大きいので、参考までに。

  



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