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エホバの証人どこへ逝く

丸い三角形は存在しない。よって神は存在しない。

もし仮に天国とか地獄とかがあったなら、イエスも使徒も歴代の教皇も殉教者も、モーセやイザヤやエゼキエルなどの預言者も、ムハンマドや歴代のスルタンやカリフも、親鸞や日蓮も、みーんな地獄に落ちている。そしてその信者たちも。

神は最悪だ。粗暴で恥知らずだ。
神はまるで悪臭を漂わせて千鳥歩きをしているお喋りな大便器の化け物のようだ。
その信者は大便器を排泄物で詰まらせて汚物を逆流させ、それを見ながら「面白かったではないか」と言って笑っているかのようだ。

ヤクの売人が刑務所で教誨師の影響を受けて改心し、出所してから神学校を出て今では牧師をやっていたりする。
ヤクの売人だった人物が今では宗教という名の薬物を売りさばいていたりする。
刑務所は人生の縮図だ。

「君たちは全員、棄教しなさい」と半沢は言った。
「自分の胸に手を当ててよーく考えてみてください。あなた方の心の声がこう言っているのが聞こえるでしょう。お前はもう手遅れだ。決して救われることなどないと」

半沢が帰宅すると郵便受けに何やら怪しい紙屑が。エホバの証人のゴミチラシかよ。けしからん。全くうんざりだ。まじでド鬱陶しい。ナニナニ、「神と友情を築きなさい」だと?「神と友達になりなさい」だと?ありえへんわ。エホバの証人は多神教の宗教なのか?日本昔話に出てくるような神様となら一緒に酒飲んで踊ったり歌ったりして友達みたいになれるけど、一神教の神とは絶対そんなことにならへん。エホバは人間と酒を酌み交わしたりなんか絶対しないし、友達付き合いもせん。エホバと人間との関係は主人と奴隷の関係で、友達付き合いとかやあらへん。イエスや使徒や聖人や福者が天上の楽園で皆で仲良しこよしで暮らしているなんて一体どこのオッサンが想像したの?聖書研究苦節ウン十年のええ年こいたオッサンが、鉛筆舐め舐め拵えた作文がこれなの?こんな似非教説を撒き散らしとるのがエホバの証人なんけ?日本の信者のためにマイルドに味付けしといたんか?神と友達って、エホバの証人以外のキリスト教の宗派ではどういう解釈になっとるのけ?

その日の朝方には、半沢はエホバの証人が駅前に立っているのを見掛けた。なんて目障りなのだ。皆が働きに出掛けるのに何をしているのだ。『目覚めよ!』だって?寝呆けているのはお前たちではないか。まだ若いくせに何でこんな所で油売ってるんだ。お前たちも働けよ。これから職場に向かう労働者の皆様方への嫌がらせのつもりかよ。目が腐るではないか。明日からの連休を大勢の人が楽しみにしているのに、気持ちが萎えるではないか。少しくらい気遣いとか配慮とかデリカシーちゅうもんはないんか。ハイ、御座いません。
因みに『目覚めよ!』とはエホバの証人が隔週で発行している下劣な小冊子のことだ。

信者には自分が毒リンゴを売り歩いているという自覚はない。魔女の毒リンゴを食べて輸血拒否で亡くなった人もいる。

彼らには十戒も山上の垂訓も守ってなどいない。非常に身勝手で不誠実極まりない。その様な者達がどうして最後の審判で罰せられずに済むだろうか。

エホバの証人は「人の命にはそれぞれ意味がある」のだと言う。ならば彼らの人生や行動にもそれなりの意味があるのだろう。駅前にド鬱陶しい格好で突っ立っているのも意味があるのだろう。

「小さな山火事はたまにはあった方が良い。小さな山火事ならば消すことが出来るが、大きな山火事は人間の手で消すことが出来ずに長期間ただ呆然と為すすべもなく放置せざるを得ない。小さな山火事をたまに起こしておけば、大きな山火事に発展することはない」

ナシーブ・タレブが『ブラック・スワン』という著作の中でそのように書いていた。バブル崩壊についての考察や喩えとして。
経済を語る上では割と有名な喩え話なのだろう。つまり大きな山火事は余計だが、小さな山火事は必要悪なのだと。山火事など無いに越したことはないのだが、小さな山火事をゼロにしようと傾注するほど逆に大きな山火事が発生するリスクが高まるというジレンマに陥ってしまう。

エホバの証人や統一教会や福音派などのキリスト教信者はその喩え話を知っているだろうか?
タレブはレバノン出身でギリシャ正教の家系なので。

半沢が思うのは、エホバの証人は小さな山火事だと言うことだ。どうも目障りで納得いかない面も多々あるが、そういうことにしておく。
山火事で命や財産を奪われたり家を焼け出されたり虐待されたり献金額が多過ぎて破産したりする人もいるから、それを看過するのは信条的に絶対に許せない人もいるだろう。小さな山火事でも火事は火事なのだと。生命保険目的で子供が殺されて、それを親の信教のせいにされたらどうなるのかと。

鬼滅の刃では上弦の鬼が「お前も鬼になれ」と炭治郎たちに迫る。上弦の鬼のその問い掛けは読者や視聴者への問い掛けでもある。大きな山火事に見舞われた時、鬼にならなければ自分の命が助からない時、上弦の鬼の誘いを断ることができる人はフィクションの中だけでしかまず存在しない。
そこのあなたも鬼の毒に侵されているか、既に鬼化しているのかも。何故ならば誰もが人を喰らって生きていくのがこの社会なのだから。江戸時代の飢饉の時には、塩漬けにした女房子供の死肉で食い繋いだご先祖もいたのだから。南方の戦線では戦友の死肉を喰って生き延びたのだから。

エホバの証人は既に鬼なのか?そうかもしれない。「お前も鬼、いや、信者になれ」と。そこは狭き門とは反対の門だ。暗黒面への入口だ。
「信者になれば救われます。楽園に行けて永遠の命を得られます」
伝道者は鬼そのものだ。
今日もエホバの証人たちは歩く小さな山火事として生きていく。小さな山火事として駅前に立ち続ける。それが彼らの生きる意味なのか?ハイ、そうです。エホバの証人とは必要悪なのか?まあ、そういうことにしておこう。
必要悪に感謝を、敢えて。汝の敵を愛せ、寧ろ。
宗教そのものが大なり小なり山火事みたいなものなのだろう。

必要悪が小さな山火事ならば、大きな山火事とは何なのか?
半沢がパッと思い浮かべるのは、イスラム国、共産主義、ナチス、そしてプーチン。
元々は世界金融恐慌やブラックマンデーやパンデミックなどの喩えではあるのだけれども。

せっかくコロナがおさまったと思ったらまたぞろエホバの証人が目立ってきたので、ついつらつらと駄文を綴ってしまった。半沢も鬼の毒に侵されているのだろう。

エホバの証人の主張や存在自体、人類の知恵や叡智に対する冒涜であり、彼らは悪の手先であり組織は悪の結社だ。断じて許されるものではない。これは最早、科学云々の問題ではない。常識の問題。彼らは常識に欠けていて病気なのだ。歴史的事実を歪め、考古学的業績や人類の発展に対してはつばを吐き、人類や地球の生き物の生命に対しての冒涜行為を働いているのだ。
彼らはデタラメで病気なポンコツだ。今までずっとデタラメを誰彼ともなく吹聴してきたのだ。悪の所業だ。決して許されることではない。死んでも許されない。彼らは病気だ。つける薬なし。死んでも治らない。もう手遅れだ。
半沢は彼らを強く強く呪詛する。彼らの家族や友人知人も呪詛する。最大級の不幸が彼らに降り掛かる。
彼らには道徳心がない。慇懃無礼というものを知らない。彼らは疫病だ。マゾヒスティックな病人だ。決して治らない。死んでも治らない。救われることなどない。呪われている。呪われた化石だ。エホバの証人は毒麦だ。永遠の炎で焼かれ続ける。彼らの目玉はゴキブリに喰われ、下腹部には山蛭が這い回る。彼らは廃人のようだ。死んでも廃人だ。彼らの口からは廃液と死の臭いがする。彼らが笑い掛ければ美しい花も枯れる。彼らの人生には何もない。デタラメしかない。人間性が欠けている。彼らは己の1日でも早い滅亡を待ち望む者達だ。そして彼らのその邪な願望は己が豚の餌となることを切望しているかのようだ。
彼らが信じていることは、ティラノサウルスは口から火を吹いたとか目からビームを出せたとか、そのような戯け事と同じだ。

アダムとエバは紀元前6000年頃の人だとか。計算が狂っているけど、元々は創作に過ぎないので真面目に計算して偉そうにしている。

信仰の自由とか言うけれど、邪教を放置しておくのは悪に加担しているのと同じではないのか?

革靴を左右逆に履いておいて、「これが正式の履き方だから皆さんもこの様に履きましょう」と言っているのが信者ではないのか。
この国には信仰の自由はあるが、信仰を強要する自由などない。

人はパンのみにて生きるに非ず。だが神の言葉のみにて生きられると聖書のどこにあるのか?

仮に生まれ変わりとか前世とか輪廻転生とかがあるとして、
どこかの誰かの前世をずっと過去まで遡って行くと前世の前前世の前前前世とかは北京原人かもしれないし、もっと遡って行くとプテラノドンかもしれない。
本当に前世とかってあるのか?
半沢はないと断定している。
良い牛が人間に生まれ変わり、悪い牛がムカデに生まれ変わると仮定して、
牛にとっての善とか悪って何?
もし来世が牛だったらどうやってまた人間に転生出来ると言うの?
もし誰かの前世が牛だったとしたら、どうして人間に転生出来たと言うのか?

半沢は聖書の教えは所詮は人間の創作や妄想に過ぎないと考えている。生まれ変わりも最後の審判も地獄も天国も精霊も魂も天使もないと考えている。
人間は神が土を捏ねて造ったものではないし、アダムもエバもカインもモーセもノアもアブラハムもダビデもソロモンも架空の人物だ。聖書は虚構が織り交ぜられた創作物であり史実ではない。神の言葉でもない。オカルト本だ。そのような書物の教えを信奉していたイエスはもちろん神の子ではなくペテン師か妄想に捕らわれた狂人か真性マゾに過ぎない。
宗教とは現実を直視することを回避する為の装置。自分自身の愚かさや世界の愚かさを直視することを回避させ、そのことで人は一時の心理的救済を得ることが出来る。現実を直視することで不安感や危機感が増大し、思考が硬直化し判断力や行動力が低下し精神的にも不安定になり、生命が危ぶまれる事態に陥ることも予想される。現実直視を回避することで、人に次の行動を促し危機的状況からの脱出を働き掛ける。
神とは脳がもたらしたそうした心理的な危機回避能力の一つ。脳がもつ様々な働きや機能のうちの一つ。

最後の審判が近いとか魂が穢れるとか言って他人を脅しているクリスチャンは、罪深く欲深く虚栄心が強いのではないか?
聖書にはこうある。

火矢を射て人を死に至らしめる気の狂った者は、仲間を騙して「面白かったではないか」と言う者のようだ。箴言26.18~19

キリスト教の考えでは、近々ハルマゲドンがやって来て人類は殆ど滅亡し、それから最後の審判で全ての人類の魂が裁かれるのだとか。
裁かれるのはハルマゲドンで死んだ者だけでなく、人類誕生以来、地上に産まれてきた人々の全ての魂が裁かれる。赤ちゃんの魂も。
最後の審判で見事に合格した魂は神の楽園に行ける。

細かい部分は忘れたが、キリスト教長老派の著名な日本人作家の本にそんな風に書いてあった。

だが書いてないこともたくさんあった。例えば、

ネアンデルタール人やデニソワ人の魂は最後の審判で裁かれるのか?
北京原人、ジャワ原人、アウストラロピテクスはどうなのか?更にその先の類人猿は?
ネアンデルタール人の時代から天使はいたのか?

ネアンデルタール人にキリスト教信者はいなかった。裁かれる謂れもないだろうに。ネアンデルタール人にはいい迷惑だろうな。
現代人の中でネアンデルタール人やデニソワ人の遺伝子が含まれている者が大勢いて、ホモ・サピエンスがネアンデルタール人やデニソワ人と交雑していたことが判明している。彼らはあなたの遠い親戚。アダムの子孫。とても基本的で本質的な話。
彼らがアダムの子孫ならばアダムはアウストラロピテクスとかかも。
黙字録の大淫婦や獣とはあなた自身である。鏡を御覧なさい。心に何本もの角が生えているのが見えるでしょう。
違いますか?
絶滅への道は、善意で敷き詰められている。

ネアンデルタール人やデニソワ人にも前世とか来世ってあったのか?
良いネアンデルタール人が来世でホモ・サピエンスに生まれ変わったり、悪いネアンデルタール人が地獄に堕ちたりしたとして、ネアンデルタール人にとっての善とか悪って何なのだろうか?
誰かの前前前世がネアンデルタール人だとして、どうして生まれ変われたのだろうか?
ヒトラーもスターリンも毛沢東もプーチンも、前世で善い行いをして生まれ変わって国の指導者にまで登り詰めたのだろうに、どうしてあんな極悪人なのか?
そもそも良い魂が人間に生まれ変わるのであれば、とっくの昔にこの世は善人ばかり住む楽園になっている筈なのに。

江戸時代には飢饉の時、間引きしたり人肉を食べたりした。
女房子供を塩漬けにして食った者に罪はあるのだろうか?
地獄に堕ちただろうか?
太平洋の孤島で餓死寸前になり仲間の兵隊を食って命拾いしてようやく帰国出来た旧日本軍兵士に罪はあるのだろうか?
その人はもしかしたらあなたの曽祖父なのかもしれない。人肉を食わなければあなたは生まれて来なかったかも知れない。
人類の歴史は飢えの連続で、ネアンデルタール人も共食いをしていたと言う。人類は共食いしていなければとっくに絶滅していたかもしれない。

世の中には何種類もの蛇がいる。エホバの証人や福音派は進化論を否定している。ノアの方舟には蛇の原種の番いが乗っていたと彼らは言う。マムシやアナコンダやキングコブラが蛇の原種の番いから枝分かれしたのだと彼らは言う。ならばDNAにその痕跡が遺されているはずだ。だが枝分かれしたのはノアの方舟の時代よりもずっと過去の話だ。したがってエホバの証人や福音派の教えはデタラメだ。彼らこそが蛇そのものなのだ。
ノアの方舟以降にそんなに簡単に原種から枝分かれしたのだったら、何故縞蛇や青大将や小豆蛇がお互いに交配したりそこから新種が生まれたりしないのか?
何故エホバの証人や福音派はそんな分かりきった嘘やデタラメを吹聴しているのか?
いい年こいたオッサンのくせに、どの口がそんなドたわけなことを言っているのか?
どういう神経をしているのか?
彼らは人を騙して面白がっている蛇の末裔なのか? イエス
彼らのような仕様もない人間が存在していること、それ自体が神が存在しないことを証明している。
彼らの下手くそな作文はゴミクズ。そんな作文を書いた本人もその信仰もゴミクズ。

エホバの証人やキリスト教福音派などは、ノアの方舟は神話ではなくて実話だと解釈している。進化論も否定している。
どうしてそんなデタラメを主張しているのか?
道徳心や謙虚さや人間性が欠けているからなのか?
単なる脳の病気なのか?

象にもキリンにもサイにも色々な種類がいる。アフリカ象にアジア象、網目キリンにマサイキリン、クロサイやシロサイ、それぞれオスとメスを方舟に乗せた。虎やライオンや豹や熊やカンガルーにもたくさん種類がいるがどうだろう。絶滅したドードーはノアの時代には中東にいたのか?
マンモスは方舟に乗せたのだろうか?
それともマンモスはノアの時代よりも前に滅んでいたと解釈しているのか?
ネアンデルタール人はどうなのだろう。アダムとエバからネアンデルタール人やデニソワ人が別れて、それから滅んで、ノアの家族から黒人白人モンゴロイドと別れていったと考えているのか?
マンモスを追い掛けてた人々はどこで消えたのだろう?
ナウマンゾウを食べていた人もいたのに。
進化論を否定するのなら、どうやってマンモスとかナウマンゾウとかが存在し得たのだろうか?

イエスやその弟子たちはその信仰に命を懸けた。だが命を懸けたからといってそれが真実とは決して言えない。人は嘘やデタラメに命を懸けたがるものだからだ。共産主義やイスラムの過激派などがそうだ。だからどこかの誰かが命懸けで信仰を貫いたからといって、コミュニストやテロリストと同じ末路を辿る。信者の意見は一見尤もらしく聞こえる言説も、全く道理が通っていない。単なるレトリックに過ぎない。嘘やデタラメを真実と信じて死んでいった自爆テロの犯人と同じか、それよりももっとたちが悪くて鼻に付くのが彼らの信仰だ。
信仰のリスクなら共産主義者やイスラムゲリラも背負っている。一向一揆も。
だから彼らの言葉は何の説明にもなっていない。何故死の危険を冒してまで信仰をやめなかったのかは、テロリストに聞いた方が早いのかも。彼らの信仰とも親和性が高い。

福音書はマルコやマタイやルカやヨハネなどの使徒が書いたものではない。福音書が幾つもあってタイトルがないと不便なので、後付で拵えたものだ。マタイやルカの福音書はマルコを参照にして書かれているし、トマスやユダやマリアなど福音書は新約聖書に納められたもの以外にも複数存在している。
パウロはイエスの復活どころかイエスに会ったこともない。福音書を読んだこともない。
彼らは誰が屁理屈を信じるのかとおっしゃる。そうおっしゃる彼ら自身が屁理屈を信じている。
随分とトンチンカンな宗派なのだ。

「イエスが3日後に復活したかは、実際に過去に行って見てこなければ判らないが、復活は事実だったと我々は信じている」
「神が存在して天地創造をしたかどうかは、実際に過去に行って見てこなければ判らないが、神による天地創造を我々は信じている」

などとキリスト教徒が主張するのは何故なのか?科学的根拠など何もないにも関わらず。
エホバの証人や福音派や統一教会などキリスト教には様々な宗派があるが、原理主義的な思想の信者がそのような主張を繰り返している。
だがそれは、

「自分の親が本当の親かどうかは、過去に飛んで行って実際にインサートして出しているのを見てみないと判らない。科学的根拠は一切認めない」

と言うのと同じ理屈だ。
彼らは自分の都合の良いようにしか考えていない。

そもそもキリスト教がその様な多くの宗派に別れている時点で、何かが根本的に間違っていると言うことだ。

そんな彼らの言説は信用するに価するものなのか?
赤色は赤い、と言っているようなもので、全く何の説明にもなっていないのに。
彼らは歴史的事実や正しい認識を捻じ曲げて、まじないや迷信や神話の類いを真実と思い込ませ、間違った認識を人々に植え付ける行為に喜んで加担し偏執狂的に固執している邪な集団組織だ。

「梅毒を病んだ売笑婦が橋の下に産み捨てていった赤ん坊が自分なのかもしれない」

と少しは想像力を働かせてみるべきだ。

聖書のヨハネの黙示録には、終末の日が近付くと偽預言者が増えていき、それはハルマゲドンの兆しなのだとか書いてある。
偽預言者とは統一教会とかエホバの証人とか福音派のことなのだ。
偽預言者は聖書によればサタンの手下で、地獄の炎で焼かれる。
統一教会の文鮮民は予言が外れたままとっくの昔に死んだけれども。

「花が美しく咲いているのは、人を喜ばせる為に神がそのように花をつくられたから」
とかエホバの証人が言っていた。
人類が生まれる何億年も前から、恐竜時代よりも前からずっと花は咲いていたのに、そんなことを考えたこともないのか?
どうしてそんな下らない嘘を吐けるのか?
子供騙しのペテン、独り善がりな罪深い作文ではないのか?サタンの手下か?
エホバの証人以外の宗教でも使われる常套句なのか?

彼らのような自覚症状のない病人は非常に厄介で周囲も大変だろうけど、人類が種を保存していく上で必要があってそんな病気も存在しているのだろう。知的障害者などは必ず学校に一人か二人はいるのであって、統合失調症なども国や地域や時代によってその割合が変化することは殆どないと言って良い。
彼らがドラッグでハイになった時に聞こえた幻聴を神だと信じ込んだり、「もしかしてオレ自身が神じゃね?」とか「7階から飛び降りてもオレ死なねえし」とか「首吊っても死なねえし」とか考えたりとか、そんなこんなも意味があってのことなのだろう。実際、オーバードーズでも死ねなかったろう。

彼らはデタラメなことばかりを言う偽善者で不道徳者だが、そんな彼らでも人類の生存にとっては何かの役には立っているのだろう。大火事にならないように小さな火事はたまにあると良いとタレブも書いている。
だが小さな火事でも暴力は暴力。彼らは大勢の人々に暴力を振るってきた。被害者が加害者になる、鬼滅の刃に出てくる鬼たちのようだ。
彼らはキリスト教の信者ではないし、聖書もまともに読んでいないのだ。何故なら彼らのようなデタラメばかりを並べる人がどのような末路を辿るのかは、聖書にはたくさん書いてあるからだ。
彼らはもう十分長生きした。

彼らはデタラメなポンコツだ。悪の手先だ。今までもそんなデタラメを誰彼ともなく吹聴してきたのだ。悪の所業だ。決して許されることではない。死んでも許されない。彼らは重篤な病人だ。死んでも治らない。つける薬なし。もう手遅れだ。

汝らの口は災いの元であり、世の中に虚言を撒き散らし不快の種を植え付けてきた。その行為故に、汝らは汚れた存在となった。汝らは羞じらいを知らぬお喋りで不愉快な歩く大便器である。汝らには聖書で何が重要か、何が救いなのか、そんなことを語る資格など毛頭ないのだ。

汝らに聖書を語る資格がないことに関しては、聖書には次のように書いてある。

盲人に道案内を任せれば、穴に落ちる。

汝らは今、自らが盲人であると証明したのだ。汝らは恥知らずで自らを省みることのない詭弁に長けた盲人だ。汝らは今まで大勢の罪なき人々を穴に落とし続けてきた。まだ落とし続けるつもりなのか?一体何人落としたら気が済むのだ?何が面白い?
汝らは盗人だ。人々が愛し合い労り合い慈しみ合う為の貴重な時間を奪い続けてきた、凶悪な強盗団だ。
目には目を歯には歯を時間には時間を。
半沢は汝らの家族親戚友人知人に対して次々と不幸が訪れることをここに強く強く強く祈念したのだった。
汝らの身に速やかなる破滅が訪れんことを。
アーメン。

イエスがいなければイスラム教も現在のような発展の仕方をしなかった。血生臭い十字軍の歴史も原理主義者のテロルもなかった。
イエスやパウロが人類の進歩を数百年遅らせた。イエスがいなければ、キリスト教がローマ帝国の国教になってなければ、自然科学はもっともっと早く発展してたのに。
イエスさえいなければ、アカデメイアもリュケイオンも閉鎖されず、アリストテレスなどのギリシャ哲学がもっともっと発展していて、人類はもっとハッピーになれてた筈だ。
イエスの存在は人類の発展にとっての足枷にしかなかった。
キリスト教は人類にとって全くもって災い以外の何物でもない。
ルターやカルヴァンはキリスト教会の腐敗を訴求して宗教改革を行ったから偉いのか?
ヤン・フスは自分の信念を曲げずに火炙りにされたから偉いのか?良かれと思って火炙りにされて処刑されて、現在でも多くの人から尊敬されているけれど、本当にそれが人類の為になったのか?
逆だ。教会など腐敗させるままにしておいてそのままキリスト教が廃れて息絶えてしまっていれば良かった。
せっかくルネサンスが始まっていたのに、下らない宗教改革に巻き込まれて大勢の人々が辛酸をなめさせられた。
免罪符だとか教会の腐敗だとかそんなものは放置しておけば勝手に廃れていって、今頃は人類はもっと豊かに幸福に暮らせていたはずなのだ。
ルターにしろカルヴァンにしろ、そもそも熱心な信者である時点ではた迷惑だし、ある意味病気なのだ。イエスによって呪われていた。もう救いようがない。
キリスト教信者はサタンであり、害悪であり、毒麦と同じだ。最初からイエスなんかいなければ妙なキリスト教カルト信者も存在していなかったのだ。

エデンの園ってそんなにいい所なのか?どうせトイレはお外なのに。
半沢はあるクリスチャンからこんなことを聞いた。
「ハルマゲドンが来て、最後の審判があって、その後は地上に楽園がおとずれる。その楽園はエデンの園に似ている。私達信者はその楽園に行くことを望んでいる」
そして真のクリスチャンだけがそこに行けるのだと。
そこってホントに楽園なのか?

ルターもカルヴァンも歴代の教皇も聖人も、イエスもマホメットもホメイニも、ウォシュレットを知らずに死んでいった。
神の王国ってホントにエデンの園に似ているのか。
どこかのセレブの家の方がマシだ。
クリスチャンはお外での用足しが大好きな人の集まりなのか。
裸足だろうしフン付けるかも。

自殺願望のあるクリスチャンがいたとして、

ハルマゲドンが来て最後の審判があって楽園に行けたらラッキーだな、
もし楽園に行けなくてもハルマゲドンで大勢死ぬから自殺する手間が省けてラッキーだな、
自分が自殺した後の残された家族の世間体とか考えるとヤダな、
未遂で終わった時の後遺症とかもヤダな、
痛いのヤダな、
だけどハルマゲドンで死ねたらそんなの気にしなくて済むからラッキーだな、
クリスチャンは最後の審判で楽園に行けても行けなくてもどっちに転んでも都合が良いな、
早くハルマゲドン来ないかなぁ、

そういう気持ち、信者にもあるし信者でない人にもある。

特にエホバの証人という原理主義組織には地獄という考え方がないので、より一層のことハルマゲドンは都合が良い。
神の王国とか楽園とかにはスマホよりも楽しいものがあるのかどうかは分からないが、もしハルマゲドンが来てそこに行けたらラッキーだし、もし仮に行けなくても死んでこの世の面倒事から開放されてそれでおしまいってわけなので、信者ならどちらに転んでもお得になる。

自殺未遂をした人に対して、「自殺したら地獄に落ちるよ」と安易に言ってしまうタイプの人は大勢いる。だがリスカ3回までならセーフとか、そんなご都合主義で身勝手なルールなどない。自殺未遂は周囲に対する脅迫のようなものだ。人を脅迫しておいてタダで済む筈がない。

「自殺すると地獄に落ちる」という説は昔からある。
ハムレットの恋人であるオフィーリアが普通の葬儀ではなく密葬だったのは、自殺が罪とされていたから。

リスカとか服毒とか、自殺未遂のリピーターは周囲を脅迫してるようなものだ。自殺に成功してなくても、未遂で十分に罪なことだ。失敗しちゃって半身不随、後遺症で生涯苛まれることなきにしもあらず。未遂で自分でシモの世話も出来なくなるとか。

自殺未遂も地獄落ちが確定っぽくないか。
だったらダラダラ長生きするより
早目に死んどいた方が少しは罪も軽くなり、ゴキブリに生まれ変わる定めだったのが野良猫に生まれ変われたりだとか、自殺を早めた方がマシってこともあるんじゃないか。

その点、エホバの証人という原理主義宗教団体は、
「地獄というものは存在しない」
って教義だから、自殺未遂経験者には何かとお得。
信者なら何回リスカしても地獄行きはなし。何故なら元々地獄はないから。
ハルマゲドンでも自殺でも、地獄がないなら安心して死ねる。

それとも何年過ぎ去ってから誰かがエホバの証人の元信者だったことを恥じ、「もっと早く死んでおけば」と後悔する日が来るのだろうか?
「今からでも遅くないから棄教するかな」ってならないのか?
「せっかく今まで信者やって来たんだし、もうすぐハルマゲドン来そうだし、棄教したら今までの苦労が水の泡だし勿体無い」って感じなのか?

自殺願望の強い人がいて、それでも世間体とか考えるとなかなか自殺出来なくて、それでハルマゲドンのような終末思想にひかれて宗教にはまっていく、そういう人って案外大勢いるのだろう。
自殺は怖いし罪な感じがするけれど、ハルマゲドンなら大勢の人と一緒に死ねるから大丈夫、そんな心理。
自殺したら恥だし失敗して後遺症が残るという不安もあるけれど、ハルマゲドンで大勢の人と一緒に死ねれば恥ではないし罪にもならないから安心だ、そんな心理が下支えとなって信仰心がますます強まって悪循環に陥っていく。コンコルド効果のような。

「核戦争を望む人など一人もいない」と言うのも間違いだ。実際には大勢いるのだから。

そうしてしばらくしてエホバの証人が夢見ていた通りに地球にハルマゲドンがやって来た。彼らの願いは天に届いたということになるのだろう。彼らが最後の審判で裁きを受けてどこかの楽園に飛んでいけたのかどうかは半沢には分からない。半沢はイエスの再臨には出くわさなかった。天使のラッパを聞くこともなかった。

人類の殆どが死に絶えたが半沢は生き延びて今は飛騨の山奥の温泉宿でウクライナ人の若い女性と一緒に暮らしている。放射能汚染で生野菜は食べていないが、缶詰や酒は有り余っている。100年は保つだろう。

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