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母親との共依存を手放して「アタリマエ」を知る。その先の「阿呆の血のしからしむるところ」

私のすべての苦しみの根源は「母親との共依存」にあったことに気付いた。

私は、母親との問題は「母親が問題のある人」であることなのだと思っていた。

問題は「私が母親と共依存に陥っている」ことであった。

私が、問題だったのだと気付いた。

母親との共依存を断ち切る。

母親にもう私が共依存を断ち切ることができたと思うまで連絡しないと伝えた。身を切られるような壮絶な苦しみがあった。高齢の母親は元気とはいえ、もういつ何が起きても不思議ではない。あと何年母親と思い出を作れるかわからない。

そう思うと悲しくて連絡を絶つ選択なんて到底できなかった。

もし、この世界が共依存の状態でも私がしあわせに、苦しむことなく生きられるのであれば、私は喜んで母親の犠牲になり続ける。

でも、自分の感情を、自分の希望を押し殺していると、言葉の通り、本当に自分が死んでしまうんだ。

これは「アタリマエ」のことなんだ。

万物命あるものは、生まれ、生き、そして死ぬ。

「アタリマエ」のことなんだ。

死んだ人と深く交流していれば、絆が深ければ深いほど、失った悲しみは大きく、受け止めることは大変なことなんだ。

「アタリマエ」のことなんだ。

人はそれぞれ別の命、別の人生があり、それぞれの考え方、守りたいものがある。だから、意見だって異なるし、別の人生を歩むことだってある。

「アタリマエ」のことなんだ。

この「アタリマエ」のことを私は何も知らなかった。

家族に生まれたものはお互い感情を理解しあわなければならない。

家族に生まれたものは絶対見捨ててはならない。

どんなに悲しいことがあっても、人前ではその人の負担にならないように平気なふりをしなければならない。それができない人間は幼稚なのだ。

これは、私が父親、母親から受け継いだ教育なのだけれど、なんとも愚かな思想で、「真理」「アタリマエ」のことからかけ離れている。

りんごを落として、太陽にめがけてりんごが浮遊していくような考えだ。

私の母親は、私を自分のものにすることで母親自身と向き合うことから目を背けられたので、私を「アタリマエ」の感覚から遠ざけようとした。

私が「アタリマエ」の感覚を知りそうな状況なると、

「あなたは宇宙人になってしまった。あなたのことは理解できないから、もう助けることはできない。そして、あなたは母親を見捨てていくのね。」と脅迫する。

自立ができない親であればあるほど、子供は母親の期待をかなえてあげたいと思うのだと思う。

その気持ち、痛いほどわかるよ〰。

でも、なんで宇宙人になることがいけないの?

どうして母親に理解され続けないといけないの?

母親が私を助けることができないのって、ときには当然のことだよね?

私が宇宙人になること、自分のやりたい道に進むことがどうして母親を見捨てることとイコールになるの?

洗脳がとけて、自分の感情がわかるようになってきて、頭のぐちゃぐちゃがとけてくると、この矛盾に気付けるようになった。

私がこれまで全く知らなかった「アタリマエ」のルールは、実はいつもそこら中にあったことにも気付くようになる。

それは、本だったり、映画だったり、ドラマだったり、漫画だったり、アニメだったり。

「有頂天家族」は昔から大好きなアニメなのだけれど、母親からの洗脳がとけて、見返してみると、「アタリマエ」のことをよく教えてくれるアニメであることに気付き、号泣する。

たぶん、「アタリマエ」のことが知りたいと渇望しているので、感動しているのだと思う。

理不尽なことって起きる。防ぎようがない。苦手なものだってある。自分は愚かである。

そして、大切な人を大切にできないのは、自らの器が小さいせいなのだと知る。

あぁ、私は器が小さいな。と思う。

それでいい。でも、器を大きくしたいと思う。大切な人、自分を含めて、大切にしたいと思う。そのために、自らの器を大きくしたいと思う。

すべては「阿呆の血のしからしむところ」なのだから。


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