リーダーを肩書きだけで見るのは危険だ

昨日お話した人が、トップに立つ者の大変さについて話していた。
ここ数日感じていたことと、通じる部分があるかもしれないと感じた。
自分は、せいぜい4人くらいの規模でしかリーダーはやったことないし、そのときもいいリーダーではなかったと思っているのだけど。

今の国際情勢に対して巻き起こっている色んな運動を見ていると、民主主義諸国の政治指導者に対してかなり厳しい口調を目にすることがある。
まあ一般市民が政治指導者に反対できるというのは民主主義国にいないとできないことで、国民主権が保証された民主主義の下での社会の動かし方だから、それ自体はいいことだと思うのだけれど。
ただし、相手のことを「首相」「大統領」という肩書きでしか見られなくなると、それはそれで大きな危険を孕んでしまうと感じている。

学部生のときに所属していたNGOで、コロナ禍を受けて大きな体制変更をしたことがあった。
そのときのリーダー (厳密に言うと組織全体のリーダーは別にいたが、一番大きな変革を迫られた事業のリーダー) は、そのときもかなりメンバーたちから責められていて (少なくとも自分の目にはそう映って)、そのときのことを思い出した。

自分はそのリーダーとメンバーの中間的なポジションにいて、リーダーともかなり仲がよかったから、立場的にも関係性的にも、その対立構造からは一歩引いたところにいたのだけれど。
確かにリーダー側に問題がなかったわけではないけれど、それ以上に「リーダー」という肩書きだけで責められる対象になっていることにものすごく違和感を抱いた。
「リーダーだからこうすべき」という理論ばかりが先走って、リーダーというポジションにいる1人の人間がどんな葛藤を抱えていて、その中でどんなことを大事にしながら1つの意思決定を下したのかというところにベクトルが向けられていない状況が、気持ち悪かった。
もちろん、今振り返れば自分は立場的に一番その状況をなんとかできたはずで、もっとできたことたくさんあったなあと思うのだけれど。

「責められるのがリーダーの役割だ」という意見もあるし、それも一理あるとは思う。
ただ同時に、「リーダー」というのはポジションの名前であって、自分たちと同じ1人の人間が民主主義の仕組みのもとで代表してそのポジションにいるのだということも忘れてはいけないなと思う。

話を戻す。
民主主義諸国の政治指導者たちに対する社会運動にも、似たような構図が見出せるなあと思ったりする。
もちろん、ロシアやイスラエルを止められていないことについては、市民による批判がないほうがおかしいとは思う。
ただ、(特にイスラエルに関しては) ただ単純に強い口調で批判できない事情もある。国家間の関係も、国内の各政治アクターとの関係性も。
もちろん人の命以上に優先されるべきものはないのだけれど、政治はそんな単純に動くものでもなくて、だから政治指導者たちは色んなジレンマと向き合いながら、上手い落としどころを見つけられるように舵取りを行っている。

この構造において一般市民による抗議運動の役割は、政治指導者にとって「市民の声に答える」ということの優先順位を上げていくことなのではないかと思うのです。
上手い落としどころを探っていく中で、ともすれば無視されてしまいがちな事柄について声を上げ、政治指導者にとって無視できないものにしていく。

結論として「声をあげることが大事」というところに行きつくのは同じだけれど、そのプロセスにおいて政治指導者が抱えているジレンマや葛藤を考慮できていなかったら、逆に危険なことが起こり得ると思ったりするのです。
より直接的に言えば、独裁よりの思考の政治アクターに台頭する機会を与え、国自体の民主主義の後退に貢献してしまうという、逆説的な結果にも繋がり得るんじゃないかと恐れたりしている。

これ、ドクターの先輩とか教授に投げたらどんな反応返ってくるのかなあ。
絶対深夜に勢いで書くものじゃないよなあ。
アマチュア政治学生のひとりごとくらいに捉えてください…。

明日はジェバレ時代から仲良くさせてもらっている、お口のテーマパークという団体さん (最近会社の一ブランドになったのかな?) のイベントのサポートに行ってきます。
本当に人として尊敬するところだらけな素敵な方たちで、国際協力に全ての時間とお金を投資したいこのタイミングでも、やっぱり関わり続けていたいと思わされちゃった。

今の国際社会において、上手い落としどころはどこになるのかを頭の片隅で考えながら、お口さんのイベントにもしっかり貢献してこようと思います。

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