金曜日の午後
金曜日の授業は午前十時からの化学だけだ。ぎりぎりまで寝て、朝食を食べずに家を出る。大学まではバスに乗って五分くらい。だけど僕は歩いて教室まで行く。早く到着したくないからだ。
だって、僕は化学が嫌いだ。教科書を読んでも理解できない。授業を聞いても理解できない。中間テストが近かった。「試験範囲は今日の授業でやったところまで」と教授が言っていた。パスさえ出来ればいい。が、それもあやしい。
五十分間の思考停止の後、僕の一週間は終わった。
寮のカフェテリアで早めのランチを食べた。先学期の途中まで住んでいた寮だ。カフェテリアの食事を美味しいと思ったことはなかった。久しぶりに食べたら、やっぱり、美味しくなかった。なのにたまに食べたくなるのが悔しい。
家への帰り道、15thアヴェニューにあるいつものコーヒーショップでコーヒーをテイクアウトする。真っ黒いコーヒーは飲みすぎるとお腹がくだる。不思議と何度も飲みたくなる。カリブ系の店員は気前がいいから、いつも紙カップの縁ぎりぎりまでコーヒーを注ぐ。
天気がいい。真夏の暑さは和らいで、柔らかい風がほんのりと花の香りを運んでくる。
僕はいつも曲がる15thとパールストリートの交差点を家とは反対方向に曲がった。ジグザグに街を歩く。バナナスプリットサンデーが美味しいダイナーのテラス席で学生のグループが食事をしていた。ロウストリートのバーでは早くも店員がビールのピッチャーを運んでいた。学生を満載したバスが通り過ぎていった。ダウンタウンのバスステーションで乗り換えて、ショッピングモールへ映画でも見に行くんだろう。
適当に歩いていたつもりだったのが、気がついたら大通りをキャンパスの方角へ歩いていた。僕はフランシスをバーガーキングのある角で曲がってキャンパスから再び遠ざかった。
線路下のアンダーパスをくぐり、コロンバス川の支流のなんとか川にかかる吊橋を渡って、林のあいだの小道を抜け、フットボールフィールドの駐車場を横切った。シーズン開幕を待つフットボールフィールドはまだしんとしていた。フィールドから伸びる道は一本だけで、真っ直ぐの道路をキャンパスとは反対の方向にひたすら進むとスプリングフィールドのはずだけれど、僕は最初の交差点を曲がって公園へ入った。
公園には広い芝生の広場があって、噴水があって、池があった。広場では子どもが、池では水鳥が群れていた。
多いのはガンとカモだった。鳥類学をとった僕は、ガンとカモを見分けることが出来た。首が長く、ちょっと見たところ大きなカモのような鳥がガンで、どう見たってカモにしか見えない鳥がカモだ。ガンはカモよりもずっと大きくて、ハクチョウくらいある。
池の周りの芝生にはガンが群れていた。水面にはカモがたくさん浮かんでいた。たまに水中からカモが飛び出してきた。カモの羽根は水を弾くからさっきまで潜っていたカモは少しも濡れていないように見えた。カモの群れに向かって一羽のコクチョウが泳いでいった。コクチョウはカモのことなんて眼中にないかのように群れの間を傍若無人に横切っていった。度々くちばしを水面につけて頭を素早く振りながら。
芝生はガンのでっかい糞だらけだった。ガンは池の周りの芝生で尻を振ったり翼を広げてバタバタしたりしていた。近づきすぎると襲ってくる。大きな体を持ち上げてちょこちょこ向かってくるところは、間抜けに見えるけれど、面と向かうと結構怖い。
僕は走って逃げた。逃げるときにガンの糞を踏みそうになった。踏んだかもしれない。いや、たぶん踏んだ。靴はお気に入りのスニーカーで、ズボンはお気に入りのジーンズ、上着はお気に入りすぎて長く着てるマドラスチェックのワークシャツ。全体的に色が褪せて、生地は洗濯と乾燥の繰り返しで毛羽立ってざらざらしていた。でも、型崩れしていないからまだ着られる。お気に入りの服を着ている日に鳥のうんこを踏んだ。小鳥のだったら気にならないか、気付きもしないだろうけど、でっかいガンの糞は小さい犬の糞くらいはある。
ガンに追い立てられた僕は、そのまま来た道を引き返した。線路に貨物列車が停まっていた。運転士が片腕を窓の外に垂らしてぼんやりと座っていた。僕に気が付くと垂らしていた腕を上げて手を振ってきた。僕は手を振り返した。アンダーパスをくぐり、車通りの激しいフランシスの長い信号を待った。うしろのバーガーキングからフレンチフライの匂いが漂ってくる。引き返そうとしかけたところで信号が変わった。僕は片側三車線の大通りを渡ってキャンパスに戻った。
金曜日の午後のキャンパスは解放感に溢れていた。太陽はまだ高く、15th沿いの並木は艶々した濃い緑色の葉っぱを風に揺らしながら、陽の光を反射してキラキラと輝いていた。
空に吸い込まれていく風船があった。背の高い一輪車に乗って通りを走り抜けていく人がいた。上半身裸で歩く学生がいた。
ルゥが芝生に寝転んでいた。
「なにしてんの?」
僕はルゥの横に腰を下ろした。地面はひんやりとしていた。ルゥは目を開けたものの眩しさに顔をしかめた。
「なにも。金曜日だもん」
ルゥはそう言うとまた目を閉じた。
僕もリュックを枕にして寝そべった。太陽が眩しかった。目をつむると瞼の裏に赤く張り付いた。
金曜日の午後は、そういうふうになっていた。
「金曜日だもんね」
「コーヒー飲みに行く?」
「もう飲んだ」
「じゃあ、いっか」
「行ってもいいよ」
「じゃあ、行こうか」
もう少しだけぼうっとしてからルゥと僕はいつものコーヒーショップへ行く。
金曜日の午後は、そういうふうに過ぎていった。
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