戦前の外国語学習: ロシア専門家養成機関 ハルビン学院
個人的に敵国の言語を学んだ語学将校の話が好きでよく読んでいる。
ここでは第二次世界大戦中に満州国に設立されたハルビン学院の入試や授業の様子をまとめる。
断っておくと授業はどういうものだったのか、外国語を学ぶ苦労などそっち方面をまとめる。自分は外国語を学ぶことが趣味でネットもないCDもない、洋書も今より出版されてない、ネイティブに中々会う機会もない昔の人はどういう勉強をしたのか興味があるからだ。
戦時中の人間ドラマなどは特に興味もないので扱わない。
参考文献: 「満州の情報基地 ハルビン学院」
ハルビン学院とは
1920年に設立されたロシア語の専門家を育成する高等教育機関
源氏阿野中国黒竜江省はハルビンに設立された。
将来の対ソ外交・通商を担う若者を輩出することが目的だった
杉原千畝は第1期生
入学試験
杉原千畝の時代には入試はなかった。
後ほど、各県で入試が行われるようになった。合否は即日発表。
科目は、
・英語の筆記
・小論文
・身体検査と面接
小論文のテーマは「大東亜共栄圏とロシア」などというロシアにちなんだテーマが選ばれた。
ハルビン学園はどれだけ重要だったのか?
日露戦争は日本の勝利に終わったが領土の獲得は出来なかった。日本が得たのは満州南部の鉄道と租借地管理の会社の権益のみだった。
なので日本政府は統治は出来ず、満鉄が統治を行った。
満鉄はその名の通り満州鉄道を管理する会社だった。しかし、ただの民間会社ではなく日本の国防上重要な役割を担った。最終的に1万キロメートルを超える鉄道の管理に加え、鉄道事業から石炭の採掘、ホテル、学校の経営を行う一大財閥となる。
日本の約3倍の面積を誇る満州開発のために、調査部門(満鉄調査部門)を強化した。
満鉄調査部門の調査内容は、資源開発、産業政策、現地の中国人の意識、ロシア調査など鉄道会社の役割を超えるほど多種多様だった。
今で言うならJRが国防において重要になるような信じられないようなものだが、日本政府が管理できない分満鉄が代わりに満州を発展させ土地の調査、現地のロシア、中国人の日本に対する意識、日本にとって重要な資源の採掘を担っていた。
設立の経緯
井田考平が設立を考えた。
井田の経歴:
井田は満鉄調査部時代に、東京の日露協会に話を持ち込んだ。
日露協会とは、1902年7月に設立された日露両国の通商・外交・文化交流を目的とする外務省所轄の団体。
協会幹部の後藤新平は井田の提案に賛同し、学校設立を決定した。教師には、革命から逃れたインテリを採用することになった。日露協会は既にロシア語の講習所も開かれていたが、本格的なロシア語学校が欲しいところだった。日露協会学校は設立された
1920年5月、日本各地で1期生の入学試験が行われた。各県で試験科目は異なっていた。例えば長野県では英文和訳、和文英訳、地理、歴史、数学、漢文、国語だった(おそらく他県でも、少なくとも英語など語学能力を試す科目はあったと思われる))
1933年より、ハルビン学院と名称が変わった。
カリキュラム
当初
授業の様子
基本的には以下のようなものだった
1945年四月入学の26期生の授業の様子
入学者の内訳
1日の流れ
第1学年の1週間の授業の内訳
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