呟きなど

僕は漫画から「離れること」ができないため、漫画が描けない。逆に僕は小説から「離れること」がときに、偶にできるため小説が書ける。映画もそう。あらゆる映画から「離れること」ができるので僕はきっと映画も撮れるはずだ。映画を撮らないだけで実は、僕の中には編集を待っている映画が何本もある。

青山景の「ストロボライト」から逃げる。それが20代の目標。

千葉雅也の『動きすぎてはいけない:ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』を読み返す必要がある。伊藤計画の『ハーモニー』を読んでみる。消失の長門有希がキョンに「プログラムの稼働条件は鍵を集める事」と言っていたが、まさに僕は、青山景ワールドから脱出するために鍵を集めなければならないのだ。鍵、全ては鍵に限る。青山景の漫画は、「SWWEEET」と「ピコーン」と「よいこの黙示録(未完)」まで客観的な視線で批評することができた。が、「ストロボライト」は客観的に読むことすらできずに、漫画の内容をだらだらと述べるだけで済んだり、何か書いたらそれは凄い自分勝手な、誰にも理解されないポエムになったりした。

青山景の漫画が好き。彼の漫画を読むたび僕は自由になる。しかし、船は旅に出る、僕は青山の漫画から離れる。ストロボライトの光から解放されることで、やっと物語から自由になる。重荷を降ろして身体だけで、指と腕の協力で弾けるように飛ぶ。「いまさら翼と言われても」はまさに青山と自分の関係だ。これって『月曜日の友達』の2巻で水谷と月野の逆転に相応するのである。水谷は自由(むしろ、自由すぎるくらい)の翼を得て、月野は兄妹の世話をしなければならないという義務に覆われるが、やがて二人は合一する。小林秀雄の涙ぐましいモオツァルトから、誰のものでもないモーツァルトのピアノソナタになる。

阿部共実の『潮が舞い子が舞い』2巻を読んだ。この漫画は高校2年生の学生たちの日常を描いているが、それは阿部共実さんが現在の高校2年生を観察して漫画を描いたのではなく(多分)、記憶の中に存在する高校生たちを一回想起する形で呼び起こし、更に団地に住む人たちの魂を一回、もしくはそれ以上呼び起こして、漫画の中で『失われた時を求めて』のように記憶の中にしか存在しない人の魂に声をかけるような、不思議な漫画である。

故に漫画のキャラクターは必要以上に多い。高校生だけでも30人以上で、2巻の時点で登場人物は49人を切っている。だから妙にリアル感が出るという読者もいるかもしれないが、逆に僕は49人の登場人物がーまるで演劇の役者の出入りのようにー現れることによってリアル感がなくなっていき、例えば2巻の最終話で水木と百々瀬、火川が会話するシーンの背景は、それは現実のどこか知らない場所に実在しているとはとても思えなかった。特に百々瀬のファッションは黒と白の対比を強調して、陽の下なら服装はあまり目立たない感じになっていたと思うが、夜の中に服装がだんだん溶け込んでしまい最後のシーンは完全に影に染まってしまう。もちろん、彼女の存在は漫画の中でリアル感を得て現実の人とは異なる意味で「存在している」のでその存在については、我々に疑う余地などない。

これは青山景の『ストロボライト』のラストシーンを想起させる。たとえば『ストロボライト』で主人公たち(浜崎と町田)の姿を黒いベタが埋めつくすシーンを見るかぎり、青山は漫画として現実を描こうとしたのではなくて、「現実としての漫画」を描こうとしているのが分かる。ただ、阿部共実は真実と偽りのロールプレイに、青山みたいに興味を持っているわけではないように見える。従って彼の漫画はいつも「オチ」があって、2巻のラストシーンで3人の姿が影に染まってしまってもそれが「正しいオチ」でない以上、次の3巻でまた別の物語として現れるに違いないと、誠実な読者は勝手に思うのである。それを漫画の可能性と呼ぶのはまだ早いが、それでも僕は阿部共実の『潮が舞い子が舞い』のなかにある漫画の可能性を直視したい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?