天智期を古代の占領統治下と読む

『天智朝と東アジア ー唐の支配から律令国家へー』読了。

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初めて知った説(?)の歴史本。トンデモ系とも言えない、突っ込み所=弱点もなくはない気もするあ、総体的には真面目に検討する価値のある説だと思った。

自分が受け取った著者による説とは
白村江の戦い(西暦663年)に敗れた倭に対して、唐が羈縻(きび)政策※を通じて、敗戦処理を進めた。実務としては唐から直接ではなく、敗戦国の百済に進駐した部隊(熊津都督府)を通じて行われた。しかし、その期間は意外に短く、朝鮮半島の覇者となった新羅と唐が衝突しはじめ(671年ごろ)、しかも新羅が勝ち、唐が半島から撤退したため、朝鮮半島経由での羈縻政策は困難になった。

・・・だから、この唐による占領支配の歴史は”黒歴史”として(と著者の表現では言ってないが)、日本の歴史からは葬り去られてしまっている。という説である。

政権の拠点を九州に移し白村江の指揮を取り、また敗戦処理を担ったのが中大兄(なかのおおえの)=天智天皇であり、その留守をまもり、天智系の流れを断つ内乱=壬申の乱で勝利した大海皇子=天武天皇(&持統天皇の流れ)で、歴史をリセットして、『日本書記』で都合いいように書き残したんだという説である。

だからこそ
1:古代の謎の朝鮮式山城は、通常では防御用といわれているが、実際は占領軍の通信用施設である。
2:天智が自発的に近江に遷都したのでなく、占領軍が大和を使うので、弾かれて移ったのだ説。
3:律令国家として「近江令」は占領軍の押付け(例:GHQの日本国憲法)、だからこそ天武の時期に「飛鳥浄御原令」で編集し直そうとした。(例:改憲論)

※羈縻政策=周辺国に対して、中国の王朝が王朝の一部として吸収するのではなく、独自の支配者を認めて任せるやり方

目次
はじめに
第一章 白村江への道
第二章 白村江の敗戦処理
第三章 朝鮮式山城の築造
第四章 近江遷都
第五章 律令国家への道
おわりに

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