三中井(みなかい)百貨店を知ってますか?

『幻の三中井百貨店 ー朝鮮を席巻した近江商人・百貨店王の興亡ー』(林廣茂、晩聲社、2004年)読了。

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三中井百貨店と書いて「みなかい ひゃっかてん」と読む。
普通の人に「三中井百貨店」と聞いても、知らないはずだ。かなりな百貨店好きに聞いたとしても「あれっ?そんなローカル百貨店があったかな?」となるだろう。そう、三中井百貨店は地方百貨店ではない。それは、戦前の朝鮮半島で日系の百貨店として一番大きく展開していた店であったが、戦後に消滅した百貨店である。
つまり、今となっては、もうどこにも存在しない”幻の百貨店”が三中井である。

著者は1940年、朝鮮(現韓国)プヨ生まれ。外資系マーケティング企業でのコンサルティング業務を経て、滋賀大学、同志社大学にて教鞭に立っていた方。
著者自身が序章の中で「あと10年早ければ、もっと生存者の証言が取れたのに」と残念がっておられるが、この本は、著者の朝鮮生まれ、滋賀大、経営学などの背景やネットワークあってこそ形になった、歴史を留めた貴重な一冊である。

三中井百貨店は近江商人にルーツがある。五個荘金堂を出身、拠点にした中江兄弟による創業である。2代目中江勝治郎の長男・3代目勝治郎(善蔵改め)、次男西村久次郎、三男富十郎、五男準五郎の四人兄弟である。(四男は夭折)
1905年(明治38年)朝鮮・大邱(テグ)で雑貨・小間物屋としてスタート、その後呉服屋になり、6年後に京城(現ソウル)に進出、1933年(昭和8年)に朝鮮で最大級の「三中井百貨店京城本店」を構えた。敗戦時の1945年(昭和20年)には京城を含め朝鮮全土で12店、満州に3店、中国に3店を展開していた。ピーク時には従業員4千人、年間売上高1億円(現在価値でざっと5千億円)の規模。
京城では三越、三中井、平田、丁子屋と和信(朝鮮資本)の五大百貨店があった。
京城店単体では、売上、プレステージ感では三越の方が上とされたが、朝鮮、大陸などの内地以外の進出先でのトータル売上では三越を超えていた。

上記のような大きな規模て展開していた三中井百貨店が、なぜ敗戦を境に全く消えてしまったのか?の要因というか答えが、この本を読むことでわかってくる。

要因
(1)敗戦を境に日本人は退去させらた。朝鮮人社員に経営が移った。
(2)戦前の経営幹部は日本人が占め、朝鮮人の経営陣を養成していなかった。
(3)そのため商品確保や経営が上手くいかず、PXになったした後に消滅した。
(4)四兄弟が戦前に引退、死去しており、混乱期と世代交代が重なった。
(5)4代目勝治郎は拡大主義のワンマン経営で周囲が止められなかった。
(6)戦後でも資金・暖簾力はあったが、4代目が株投資失敗や遊興で蕩尽した。
(7)戦前戦中で軍需売上が5〜6割あり、敗戦後のリスク回避を怠っていた。

■目次
序章 なぜ、今、三中井百貨店なのか
第一章 創業 (大邱から京城へ)
第二章 助走 (アメリカ百貨店視察旅行)
第三章 戦略 (百貨店王への道)
第四章 背景 (朝鮮社会の日本適応化)
第五章 証言 (三中井とともに生きた人々)
第六章 消滅 (幻の三中井百貨店)
最終章 日韓の架け橋としての三中井

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