二代目『薔薇族』編集長の作り方 第2回(Webマガジン『ヒビレポ』2015年4月10日号掲載)

たどり着けない「新宿二丁目」

重度の中二病患者だった少年が、本邦初の同性愛マガジン『薔薇族』の二代目編集長になるまでを描く大河ロマン(自称)……プロローグ篇を経て、いよいよ今回より本編に突入します!

専門学校への進学のため、ぼくが上京したのは今から32年前の1983年3月。
「まだ生まれてなかったス」という読者の方も多いかと思いますが、ぼくはその日のことを鮮明なビジュアルとして記憶しているのだ。
自己紹介してくれた人の名を数秒後に忘れてしまうこともザラな「日本で最も忘却能力に長けた男」であるぼくが覚えているのだから、きっと人生でも有数の「節目の1日」だったンだろうなァ。

引っ越し当日こそ「風呂屋へ行って、自炊をして……」と、つつましやかな生活をしたぼくだったが、2日目からはもうウキウキ気分で遊びほうけていたのであった。
東京へは高校時代、月に1〜2回のペースで通っていたのだが、経費節約のため行きも帰りも在来線だったので、いつも時間に追われてせわしなかった。
しかし念願の「東京住まい」が実現したことで、もう帰りの電車時間を気にする必要もなくなり、思う存分フラフラできる身分になったのだ。
――おォ、我が世の春よ!

もちろん「夜遊び」にも出かけましたヨ。
最初のそれは忘れもしない、池袋の映画館「文芸坐」のオールナイト上映会であった。
プログラムは「東宝怪獣映画」の4本立てだか5本立てで、夜9時過ぎの池袋駅にひとり降り立った時にはものすごくドキドキしてたっけ。
「ずっと観たかった名作が観られることのドキドキ」「初めて夜遊びすることのドキドキ」。
それに加えて、入場の列に並んでいる時や、鑑賞後に始発に乗るべく駅へ急いでいる時には「オマワリサンに補導されるんじゃないか」とドキドキしたので、まさにドキドキづくしの一夜だったのである。

……などとオタク話ばっかだと期待して読んでる人に叱られそうなので、『薔薇族』二代目編集長っぽい「初体験話」もしとこう。
ハイ、世界に知られたゲイタウン「新宿二丁目」に最初に向かったときの話です。

インターネットが普及し、全国のどこにいても同好の士と知り合えるようになった現代では「生涯一度も足を踏み入れないゲイ」も珍しくないが、当時はまだ新宿二丁目のステータスは高かった。
あの頃のゲイにとっての新宿二丁目とは「一度は行っとかなきゃいけないよーな場所」で、江戸町人にとっての「富士講」「伊勢参り」みたいなものだったのだ(違うか?)。

そんなわけで、今となっては笑い話なのだが、ぼくは勝手に「新宿二丁目はきっと、もンのすごい盛り場であるに違いない」と思い込んでいたのだ。
ゆえに「新宿駅から目と鼻の先にあるハズである。そしてすぐに見つかることであろう」と信じて疑わず、何の下調べもせずにノコノコ出かけて行った。

ところが、である。
JR(その時代はまだ「国電」だった)の新宿駅を降りて大通り(当時はそこに「新宿通り」という名があることすら知らなかった)を歩いても歩いても歩いても、ソレっぽいものはいっこうに見えてこないのだ。
(おかしい……どうしていつまで歩いても二丁目に着かないんだ!?)
「もしや、なんか東京土着の妖怪にでも化かされているのか?」と半分マジで思ったネ。
水木しげる先生がいてくれれば、きっとこの怪現象の根源たる妖怪の名を云い当ててくださるだろうに……と泣きたい気分になり、ぼくのアセりはどんどん強くなっていった。

一体どのくらい歩いたことだろう、いいかげんイヤになってきた。
5〜6時間はへっちゃらで歩く現在のぼくならば「歩いたうちにも入らないような距離」なのだが、その時はまだ散歩の趣味はなかったし、住み始めて間もない東京にまだオッカナビクリ状態だったので精神的にキツかったのである。
そんなわけで、
「次の信号まで行っても二丁目が現れる気配がなかったら、きっと方角を間違えているのだ。だから、今日のところはあきらめて帰ろう」
と心の中で決めたぼくなのであった。

さァ、果たして18歳のぼくはぶじ新宿二丁目にたどり着けたのであろうか!?
……残念ながら、次の信号まで行っても二丁目らしき街並は見つからず、ぼくは失意の色を浮かべながらトボトボと新宿駅へと引き返したのであった。

そりゃァ今ならばネ、事前にグーグルマップかなんかで新宿駅からの道順を検索してプリントアウトしとくだろうし、スマホのナビ機能だって使える。
しかし当時のぼくは、街の地図は情報誌『ぴあ』の別冊『ぴあMAP』しか持ってなかったし、『薔薇族』を始めとするゲイ雑誌にも「二丁目内の呑み屋MAP」は載っていても「新宿駅からの行き方」なんかは載っていなかった。
これはべつにぼくだけの話ではなく、当時のヤングはみんな似たり寄ったりの状態だったのだ。

結論を云うならば、ぼくは進む方向を間違ってはいなかった。
最後の信号を引き返さずに渡り、そこからほんの1〜2分も進めば、目指す「ゲイタウン新宿二丁目」のメインストリートである「仲通り」にたどり着けたのである。
嗚呼、なんたるこっちゃ!

とゆーか、じつはさらに「なんたるこっちゃ」な事実もありましてネ。
ぼくは高校生の時分から「無自覚な状態のまま新宿二丁目に来ていた」ということが後に判明するのであった。

それはどういう意味かといえば、じつは新宿二丁目というのは1960年代から80年代前半にかけては「サブカルチャー」や「オタク文化」の発信基地であったのだ。
たとえば前述の仲通りの「新宿通り側入口」の右側には、伝説的タウン誌として知られる『新宿プレイマップ』(1969〜1972)の編集部があった。
さらに左側には、こちらも伝説の漫画喫茶(現在のような「漫喫」ではなく、濃ゆ〜い漫画マニアたちのたまり場だった喫茶店のこと)「コボタン」があったのだ。

そして、最寄駅である地下鉄「新宿御苑前駅」を出てすぐのところに「アニメック」というアニメグッズの専門店があって、そこにぼくは上京するたびに出入りしていたのであった。
現在は「散歩者」として、東京のたいていの盛り場ならば踏破しているぼくだが、東京ビギナーだったその頃は「新宿御苑駅」の地番が新宿二丁目であることすら知らなかったのですワ(なんせ最初は駅名を「しんじゅく・ごはん」と呼んでたくらい無知だったのだ)。

無自覚に「ゲイタウン以外の新宿二丁目」に出入りしていた当時のぼくは、ただ地下鉄駅とアニメショップを往復するだけで帰途についてしまっていた。
まだ「トーキョーて、コエ〜とこなんだべ?」と多分にビクついていたので、ショップ周辺を探検するような心のゆとりなんてなかったのだ。

しかし、やがて「ゲイタウンとしての新宿二丁目」に行き慣れ、周囲を散策できる余裕が持てるようになると、通っていたアニメショップと仲通りが笑っちゃうほどの至近距離にあることを知り、思わず笑ってしまったネ。
これはまさに「幸せを呼ぶ青い鳥はじつはすぐ身近にいた」みたいな話……じゃねーか。
……う〜ん、つまりぼくは10代の頃からもうすでに「情弱・損ズ」の参加資格を満たしていたってコトかしらん?

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