学びのベースとなるという意味で、「遊び」を規定してみる。
「学び」には大いに興味があります。人が賢くなるとはどういうことか、賢さとはどこまで単体として取り出せるものか、そしてよく生きるとは何か、こうした問題に対しては、相応の興味があります。「教育」という言葉になかなか馴染めないのですが、便宜上、使用しておきます。
山の学校に移り住んで、やりたいことがたくさん出てきました。ああ、そうか、これまではなかなかやらせてもらえなかったことがやりたいのか、、、と思っています。引き続き、書き込ませていただきます。
◎サバイバル教育
・かつて、仲間と盛り上がっていた、猪狩りの話がどこかに引っかかっていたのだと思います。そのあたりに近いことがやりたいです。土地柄、避難訓練、防災教育の必要性はちょっとわかりませんが^^
・学びを掲げる前に、教育なんて(タイトルに入れていますが)もちろん脇において、それよりも大事なものは、やはり「遊び」の中にあるんだな、と思えてきました。できるだけ順に説明します。
・学びにおいて、最終的に必要になる「力」、または、最も大切なマインドが何か、どうやったら培えるのか、をいっぺんに考えたときに、「上限なく、好きなだけ続けていい環境にあること(もちろん止めたいときに止められる条件設定)」「自分の好きなことを選択する力」なのではないかと思い始めました。
・完全に自然の中で、習い事に束縛されない自由過ぎる放課後を与えられて、もちろん一緒にやりたければ友達を選んでも家族を選んでも良い、そんな環境設定は、ほぼここでしか実現できないのではないかと思うのです。
・そんな中で、「教科とは全く関係ない宿題」を毎日出してみたいのは、別記のとおりです。
・このとき、遊びの条件からはずれないためにも、教員・大人は、いちいち評価も分析もしないでいたいです。本人が、人に話したくなれば話せばいいし、人の話を聞いて興味を持てば真似してみればいい。でも、教員もそんな感覚で、面白いと思って、黙っていられなくなったら喋ってしまう。
・そういえば、いつだかやっていたワークショップにはそんなものがあったんですかね。喋りたいことがあるから、時間も忘れて喋り続けてしまう。いまさらキーワードですけど、そういう「楽しさ」と自分の言動を近づけていくことにこそ、ウェルビーイングとか自己実現とかそういうものがあると思うんです。本当はそれだけをやっていれば、あとのこと、特に何をいつまでに学ぶかなどという話は、学びのコストがますますデフレ化している世界で、どんどん小さくなっていくように思えてしまいます。
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