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教育とか学びを限りなくゼロから作る

この度、事実上「新しい学校」を作るような話になりました。本当はそういう言い方はあまり好きではないが、自分の知っている表現で、それ以外のものが今のところ思いつかない。

新しい学校と言うとき、初等中等教育では、手つかずの自然の中にあることの強みをいかに出せるかかと思っております。
毎日教科と関係ない宿題を出す(3本の木に1mだけ登る、一つの種類の葉っぱをペットボトルいっぱいに集める、虫や鳥の鳴き声を道具を使って真似する、一つの種類の石を10個集める、、、)などやってみたいと思っています。
「では、集めたものを比べてみたら、、、」などと口出しをしたくなるところですが、遊びの本質は「上限なく好きなだけやって良いこと」にあるのではないかと思い、子ども自身が、(場合によっては親と一緒に、友達と一緒に)頼まれてもいないのに、没頭して続けられる遊びの出発点に立たせたいというのが一番の思いです。目一杯遊んで、投げて、くっつけて、壊して、、、あるいは壊したくないと思って、誰かに話したくなったら、そこからいわゆる学問の入口として、何かを発信したり、分析しても良いのかと思うし、もちろん、何もしたくなければしなくても良いかと思います。
余りある自然と、習い事に縛られない自由過ぎる放課後こそが、この学校で子どもたちが得られる最大のリソースです。

もちろんゴミ問題も重要です。いわゆる「ゴミ」、そもそもこれは何でしょう。人間の作り出した「道具」と表裏一体ではないでしょうか。そして、これらと「サステナブル」の関係がどうなっているのか。本当に素朴に、ただ放置して、何が起こるかを観察してみたいと思うのです。数日~数週間は虫がわくものが、半年経つとどうなるのか。そして、虫も寄ってこないものが半年経つとどうなっているのか。場合によっては小さく切り刻んで、紫外線にさらしておいたら違いがあるのか。
いつまでも残るものがサステナブルと思いがちだけれども、もしかして、きちんと循環していくことの方が重要なのではないか。大げさに言えば私達自身はどうなのか、私達の所属する組織はどうなっているのか。

本質的には、「教科的」な学習などすべて脇において、自分自身が「反応したくなるタイミング/どうしてもやりたくないこと」をできるだけ正しく認識することの方が大切なのではないかとも思いつつ、、、そうも言っていられないので、まずは、思考の屋台骨である言語教育は不可欠。そうだ、英語+日本語+現地語を加えてトライリンガルにするってのは無理な話なのだろうか。「小学校卒業時に、各言語圏における5年生レベル程度の言語力」をつけることができたらかなり素晴らしいのではないかと思う。やってみたいとは思うが、教育というのは、計画なしで始めるわけには行かないから、それなりに調べなければならない。IB(International Bachelor)やPBL(Proect Based Learning)あたりのコンセプト、ベースから学び直すべきか。つまり、このあたりのカリキュラム構築が、何を外せないものとして配置しているか、反対に何を度外視しているか。

流行りの、STEAM関連は、ロールモデルを含めてリソースが潤沢にありすぎる。なので、あまり気にしていない。

話を戻すが、やはり、自然の中でのサバイバル力は、柱にしてしまいたい。ロープの使い方、ナイフの使い方、火の使い方。「なぜサバイバルなのか?」と聞かれても、直観的にしか答えられないが、無理をするなら、「これからは、月にでも火星にでも移住したり、まずは出かける時代だから」と言えなくもない。機械や道具を正しく使えることと合わせて、直観をしっかり働かせること、自分の限界を知って取れるリスクと避けるべきリスクを判断すること、そんなことが重要になるのではと思うから、とでもしておきたい。


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