本心について。

人が持つという本心について。

「本心を打ち明ける」「お酒の力を借りて本音で語り合う」「本性を見せたなっ!」「本当のところ君はどう思っているんだい」「本心では彼も分かっているはずだ」

本心とは何か。

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人の心について、”邪心”、”良心”という分け方、捉え方がある。

本心とはどの成分をいうのだろうか。そもそも心とは、「ここからは本心であとは偽物です」「こっからここまでは”うわべ”で、それより奥は”本心”です」などと分割可能なのだろうか。

古今東西、ありとあらゆる民族、宗教、学問、あるいは私のように無学な者によって探求されてきた話題だろう。

ここでは、学問や宗教として、私の感性という極めて不確かなものを頼りに本心について考えてみたい。

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私が思うに、本心という、ものは”ある”し、”ない”のである。
有であり、無である。

賛成しかねる人に問う。
「あなたは、あなたが本心であるとき、本であることを証明できるか」

哲学的な話をしたいわけではないので、一旦まとめる。

本心は、あるけれどもないのである。

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今日の文章は非常の読みにくい。
果たして、この煮え切らない文章を掲載してよいものか悩ましい。
でも、私は生きるのが上手な人の文章を書くのではなく、生きるのが下手くそな人の思いを吐き出すべく書くのだから、許してほしい。

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けんかなどをすると、「信じられない!いつもはああ言っていたけれど、騙してたのね。あれは全部嘘っ!!」と言ってしまうが、両者とも本心で言い合うのだろうか。あることをきっかけに、オセロのように本当は嘘にひっくり返ってしまうのだろうか。

また、二人の愛し合うものがいて、今まさに永遠の愛を誓っているとする。その言葉は、全て本当だろうか。愛という病が見せる幻ではなかろうか。

ところで、誰かのために生きようと、体が勝手に動いてしまうことがある。そんな突発的な行動は、人間の本性を表しているのだろうか。

「口ではああ言うが内心はこう思っている」としばしば思うことはある。このとき、私は彼ないし彼女の本心は言葉ではなく心のうちに秘められていると推測する。しかし、当の本人はそもそも内心ではこう思っているのであると自覚しているのだろうか。その本人からすると、

本心は、いつ、どのような条件で認識、確定されるのだろうか。

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人の本心なんざ、誰にしもわかりはしないのである。

自分の本心すらわからないのだから。

でも一方で、自分でもわからない本心のような何かを言い当てられて、驚き、またどこかで嬉しく感じることもある。

ただ、それだけだ。

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だからと言って、あなたの思う本心なんて偽物だとは思わない。

けんかしているときに、相手の言葉の裏まで汲み取れとお説教を垂れる気もさらさらない。

本心はこうであるはずだと決めつけてかかって、まんまと騙される時もあれば、
いつしか、その人を変えてしまい、幸せを一緒に握りしめているかもしれない。



本心とは何だろうか。

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