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移ろうもの。

風も吹きあえずうつろふ人の心の花になれにし年月を思へば、あはれと聞きし言の葉ごとに忘れぬものから、わが世の外になりゆくならひこそ、なき人の別れよりもまさりて悲しきものなれ。
徒然草

人間関係、というものにはそれぞれに役目がある。人生におけるその歳の立場だとか、自分のいる環境だとか、そういうものによって“役目”がある。

例えば家族もそう。
もちろん、同じ個体同士でも、場所や年代か移ろえば“役目”は変わってくる。
似たような役割を担っていても、個体が変わることもある。

当人にとっては、その一つひとつが宝であったり、暗黒面に通ずる闇だったりするわけだが、老いぼれの目を借りるなら、それは“そういうもの”である。
その一つひとつの良し悪しというより、人生という器の中にはそういうのが混じりあったりして色が整うというものなのである。

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たびたび紹介しているのだが、私が『旅猫リポート』で出会った、
「別れを損失と見做すのではなく、楽しい思い出という名の財産を得る」
といったような考え方は、
この心ならず移ろってしまう世を生きる上でとっても大事な、また私たちを一歩前に進めてくれるものだと思う。

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私は思う、お別れ、つまり“人間関係のお葬式”をきっちりやるべきだと。
なんだかそれは礼儀のように思うのである。
一つひとつの流れゆく関係をついついうっかり忘れ去ってしまうのは悲しいことなのではないかと。

若いときだなんて、あんなにも一緒に人生をともに描いた友との関係をあっさりと1週間もしないうちに捨て去ってしまう。
どうせ長生きしたって出会える人間、しかも深く関わることのできる人間なんて高が知れているのだ。ならばなおさら、その一つひとつを大切にじっくりと味わいたい。

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最近、これは学びだなぁと思った言葉がある。

「言葉は伝えるためにある。」

あたりまえといえば、あたりまえなのだが、ついつい私たちは怠けてしまって伝えることをないがしろにしてしまう。
あえて言わないのが粋ってもんよ、という考え方はわかる。好きだ。むしろ、それで一本書けそうなくらいである。しめしめネタ帳に加えておこう。
が、しかし、どうだろうか。「ありがとう」「応援している」「うれしい」「好きだ」「素敵」エトセトラ、エトセトラ。
言ってみると、意外と簡単に、すんなりと出てくる。
言われると、少し恥ずかしい気もするけど、やっぱり嬉しかったりする。
それが大切な人であればあるほど、愛しい人であればあるほど。
いや、何気ない、あまりよく知らない人であったとしても、なんだか、貴重な一面を見れた気がしてうれしくなる。

言葉って伝えるためにあるんだ。

この移ろいける人の世に、一つひとつ“あかり”を灯すように、静かに愛でるように丁寧に言葉を当てていこう。
そう、思うのである。


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